社長ブログ

社長、歴史に学ぶ⑩

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。大正末期~昭和初期、『テロよりエロ』『アカよりピンク』という言葉が有ったそうです。 1917年のロシア革命以降、『大正デモクラシー』の潮流と左翼思想が結びつくことに、政府はかなり警戒をしていたようで、厳しい検閲の中、プロレタリア文学作品の代表とも言える『蟹工船』は危険思想として発禁処分、作者の小林多喜二も獄中死する一方で、エログロナンセンス作品には政府も目をつぶったとも言われていて、これは一種の『愚民化政策』ですね(苦笑)。

この頃、高い死亡率と感染力で恐れられていた不治の病が『結核』で、第二次大戦後に抗生物質が普及し治療法が確立されるまで、日本だけでも10万人を超える人々が、毎年この肺病によって命を落としてきました。『結核』をモチーフに描かれた文学作品は数多く残されていて、”死”というものが人々にとって、かなり身近な存在だったことが窺い知れます。さて、第二回目は、谷崎潤一郎に並ぶ耽美派の巨匠、永井荷風の作品『つゆのあとさき』です。大戦景気から一転、出口の見えない戦後恐慌の続く中、首都東京は大震災に見舞われます。震災恐慌(1923年)、金融恐慌(1927年)、昭和恐慌(1930年)、立て続けに日本を襲う経済危機。とりわけ農村は大きな打撃を受け、欠食児童や女子の身売りが社会問題となりました。1931年、中央公論に掲載されたこの作品は、こんな時代背景を知らずに読んではいけません。今回も朝礼で取り上げた話題ではありませんが、もし、共感頂けるようであれば、SNSの投稿に『いいね』下さい(笑)。

舞台は、震災から数年後の東京。17歳で実家を飛び出し銀座のカッフェーで働く、主人公の君江は 21歳。脛に疵を持ちながらも(私娼をしていた時期がある)、女給として難しい時代を、逞しく生き抜いて行きます。多くの場合、無給で働く女給の収入源は、男性客の支払うチップ。まさにカッフェーが、女給のエロを売りにしていた時代です。君江もまた、多くの男性と関係を持ちますが、その姿は自然体そのもの。気の赴くままに、肉体の求めるままに行動するところが、逆に、君江の女としての『強さ』、本能的な『生命力』を際立たせます。一方で、『大正バブル』という過去の栄華にしがみつき、『金』の力を信じ『酒と女』に溺れ、君江を求める中高年男性客たち。或る者(矢田)は一夜の情事を望み、或る者(清岡)は嫉妬に狂い、その躍起になる男達の打算的な姿は、自然体の君江と非常に対照的な、救済すべき『かよわい』存在として描かれていると感じました。作品は、人生最後の一夜を共にした君江に感謝の言葉を記した、或る男(川島)の遺言状で締めくくられています。娼婦を神聖化したようなエンディングこそ、『好色』を芸術に高めた、永井の真骨頂と言えるかもしれません。

永井荷風の研究は進んでいて、この作品『つゆのあとさき』も私小説、君江のモデルとなった女性が、実際に居たようですね。永井はその『女給』さんを口説くのに必死で、カッフェーに通い詰めたとのこと。矢田も清岡も川島も、君江に言い寄った全ての男の全ての手口が、永井が実際に試した方法だと思うと、これは “野暮” としか言い様がありません。ちょっと笑えませんか?

なお、大正末期~昭和初期に登場した、洋装と断髪が特徴的な『モダンガール』。女性の社会進出の象徴と見られることもありますが、イメージと実態には、大きなギャップがあるようです。大戦景気に伴う産業化により、多くの『職業婦人』が誕生したのは事実としても、洋装・断髪は極少数派の奇抜なファッション。且つ、その中には君江のような、体を武器に生活費を稼ぐ『女給』も多く含まれていた訳ですから、『モダンガール』という言葉の裏には、夜の女を蔑む意味合いが含まれていたんだそうです。

喘息用の薬『シクレソニド』や新型インフルエンザ用に備蓄していた『アビガン錠』に、治療効果が期待できるとのこと。まだしばらくは不安な時期が続きそうですが、チーム一丸、『ONE TEAM』で難局を乗り切りましょう!次回は、”暇つぶし” に最適な作品をご紹介しますので、お楽しみに。