社長ブログ

社長、歴史に学ぶ⑧

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。今年で52歳、不要不急の外出を控え人混みを避けるとなると、自宅での映画鑑賞も たまには良いかも知れません。近年はレンタル店に出向く必要もないですから、便利な時代になりました。新型コロナウイルスが騒動になる前、この冬に劇場で観た話題作2本は、どちらも主人公の女性が自分のルーツを探す旅。1987年に『ミトコンドリア・イブ』なんて仮説も発表されましたが、現代の遺伝子解析技術を以ってすれば、男系も含め自らの起源を知ることが可能です。 映画の世界では勿論、そんな野暮なことは致しませんが、幾多の困難を乗り越えて探し当てた、2人のヒロインの原点とは?『STAR WARS/スカイウォーカーの夜明け』と『アナと雪の女王2』。こんな時だからこそ、新作のレンタルや配信の開始を早める努力をして頂けると、我々としては嬉しいですよね(笑)。

さて、先日は南極で20.75℃を記録したようですが、世界気象機関(WMO)によれば、2019年の世界の平均気温は観測史上2~3番目に高く、9~10月には北極海の氷山の大きさが過去最小になりました。住処を失ったホッキョクグマは陸に上がり、極東ロシアの村落では、群れをなして餌をあさる行動パターンが常態化。住民生活に支障が出ているそうです。ホッキョクグマの体の構造は、北極の厳しい自然環境に適応しています。白く見える体毛、実は透明で中は空洞。太陽の光を皮膚まで通し、且つ空気の層で熱を逃しません。小さな流線型の頭と長い首は、海を泳ぐのに適応した結果です。このまま北極の海氷が無くなれば、慣れない温暖な陸地で、ライバル ヒグマとの生存競争に晒されるホッキョクグマにとって、地球温暖化は死活問題。

ところが、そのホッキョクグマ、実は驚くほど巧みに環境に適応し続ける、本物の地上最大最強の肉食獣である可能性が、近年、明らかになってきました。ホッキョクグマの進化の歴史を辿ってみると、彼らがヒグマから分岐して独自の道を歩みだしたのは 50~60万年前のこと(諸説あり)。その後 地球は温暖化と寒冷化を繰り返し、ホッキョクグマが生き抜いて来た気温差は、驚きの±15℃です。果たして、どんな戦略で生き残ってきたのか?今回は、2011年12月に取り上げた話。もし、共感頂けるようであれば、SNSの投稿に『いいね』下さい(笑)。

これはね、衝撃の事実ですよ。ここ数年、温暖化の影響もあり、北上してきたヒグマと陸地に上がってきたホッキョクグマの生息域が重なり、『ハイブリッド』と呼ばれる、ヒグマとホッキョクグマの交配種が、自然界で多く確認されています。また、国際研究チームによるミトコンドリアDNAの分析の結果、現在、北極に生息するホッキョクグマの母方のルーツは、5万~2万年前に英国やアイルランド付近に生息していた、ヒグマに辿り着くということが判明、ホッキョクグマが陸地に進出して、ヒグマとの間に子孫を残していたのが、この数年間に限ったことではないことも明らかになって来たんです。2011年当時、ホッキョクグマという固有種が出現したのは、11~16万年前とされていましたが、その後の研究成果では、これもヒグマとの交雑の痕跡を示すものと解釈されています。こうなると最早、ホッキョクグマとヒグマを分類上区別すること自体が、間違っている気さえします。北極に住んでいるのは、ホッキョクグマではなく『ホッキョク・ヒグマ』。

ここからは、かなり私見が入ります(笑)。ヒグマとホッキョクグマ、見た目は随分違いますが、遺伝子レベルでは ほとんど同一種。一度 地球の寒冷化が進むと、ヒグマの一部は『ホッキョク・ヒグマ』に姿を変え、北極に進出します。地球の温暖化が始まると今度は陸地に戻り、世間で言うところの『ハイブリッド・ヒグマ』が増加、もっと温暖化が進むのか或いは寒冷化が再び始まるか、地球環境の変化をじっくり観察しながら、次の機会を狙っているのです。もっと温暖化が進めば唯の『ヒグマ』に戻り、また寒冷化が始まれば『ホッキョク・ヒグマ』に姿を変え、再び北を目指します。北極の王者は、60万年間このような変化を繰り返しながら、環境の変化を生き抜いて来たんじゃないでしょうか?ここに一つ疑問が残ります。『ホッキョク・ヒグマ』は、何故その都度、極寒の僻地を目指すのか?それは きっと、脂の乗ったアザラシの味が、忘れられなかったんでしょうねぇ(笑)。

抗HIV薬の他にも、抗マラリア薬や完治した方の血漿を使う等、効果的な治療法が確立されつつあるのは、一つの安心材料です。次回は再び、大正時代の日本に戻りますよ。お楽しみに。

社長、歴史に学ぶ⑦

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。国立感染症研究所によれば、既存のコロナウイルスとしては、人から人へとうつって『風邪』の原因となるものが4種類と、動物から感染して重症の肺炎を引き起こす、SARS(重症急性呼吸器症候群)とMERS(中東呼吸器症候群)の2種類で、合計6種類が存在することが知られていました。そこに新たに登場したのが、武漢の海鮮市場から拡大したとされる新型コロナウィルスです。『中国製造2025』の中心地、武漢市の在る湖北省だけでなく、上海市、江蘇省、浙江省、広東省など、多くの日系企業が進出する製造業の集積地帯でも感染が拡大。工場の本格再稼働の目途が立たないところも多いようですから、アジアに広がるサプライチェーンの一翼を、微力ながら担当させて頂いている弊社に於いても、全くダメージを受けないとは言えないような状況になって来ました。

その新型コロナウィルス、遺伝子レベルでは、96% コウモリ由来のウイルスと一致するとのこと。ここで大いなる疑問が出て来ます。大昔、ホモサピエンスは洞窟で暮らしいたと考えられていて、それが証拠に、アルタミラやラスコーの洞窟には、我々の先祖が描いた美しい壁画が残されています。恐らくそこには、コロナウイルスの宿主であるコウモリも、数多く生息していたに違いありません。もし当時の人類にとって、コウモリ由来のコロナウイルスが脅威であったならば、彼らが洞窟を住処に選ぶことは、なかったのではないでしょうか。太古の人骨から採取したDNAを調べれば、そこにコロナウイルスと人類が共存してきた歴史、感染拡大を止める方法を、読み取ることが出来るかも知れません。もっとも、今回のウイルスが人為的に作り出されたものだとすれば、全く別の話ではありますが。

さて、2013年4月の朝礼の原稿で、「『白から黒』へ。あたかも、オセロゲームのボード上の石が、次々と塗り替えられていく様を見ているようだ」と表現していたのが、黒田日銀の異次元金融緩和政策。リーマンショック以降、2012年末には、ECB(ヨーロッパ中央銀行)とFRB(アメリカ連邦制度準備理事会)が、2008年初比で それぞれ、250%と300%まで資産規模を膨らませ、所謂『通貨安戦争』が勃発。金融引締めを志向する白川日銀の下、歴史的円高は止まるところを知りませんでした。『白から黒』へ。円高・円安、為替は業種によって利害が背反するので、ここでは触れないこととして、黒田日銀含め、海外の中央銀行の間でも、今尚、金融緩和政策の一つのお手本とされているのが、1927年の『(昭和)金融恐慌』を抑え込んだ、高橋是清の金融政策です。今回は、日本を金融危機から救った、『白から黒』ならぬ『白から赤』について、お話しさせて頂きます。共感頂けるようであれば、SNSの投稿に『いいね』下さい(笑)。

皆さんは、『弐佰圓札』ってご存知ですか?前回・前々回とお話しした通り、1920~30年代の日本は、恐慌、恐慌また恐慌で、大変な時代でした。1918年に第一次世界大戦が終了し、荒廃していたヨーロッパの産業が競争力を回復すると、特需に浮かれていた日本経済は一気に転落。更に追い打ちを掛けるように、1923年には関東大震災が発生し、日本経済は泥沼の恐慌から抜け出せなくなりました。1927年、銀行への取り付け騒ぎが起こるなど金融不安の高まる中、その経験と手腕を買われ、自身3度目の大蔵大臣に就任したのが、『ダルマ大臣』の愛称を持つ、高橋是清です。

彼が大蔵大臣としてやった政策は主に2つ、銀行に対し借入金の返済を猶予したことと、大量のお札を刷って世の中にばら撒いたこと。金融危機に人々が不安を募らせる中、「お金は充分に有りますよ、慌てて銀行に駆けつけなくても、何時でもお金を下ろすことが出来ますよ、心配しないで下さいね」と、そんな意味合いを込めて、高橋是清が大量に用意したのが『弐佰圓札』です。実は、当時発行された『弐佰圓札』には、2種類あって、一つ目は、4月25日に発行された『弐佰圓札』。表には彩りの美しい紋様が描かれたのに対し、裏面は、相当急を要したんでしょう、印刷が省略されて真っ白、通称『ウラシロ』と呼ばれています。さすがに偽札と疑われるということで、その15日後に発行されたのが、もう一つの『弐佰圓札』。表には大和朝廷時代の伝説の人物『武内宿禰』の姿、裏には赤い紋様が施され、通称『ウラアカ』と呼ばれています。『ウラアカ』については銀行に積まれたまま、結局、一般の預金者の手に渡ることはなかったそうです。SNSの『裏垢』とは関係ないですよ、念の為(苦笑)。

近年、『MMT(現代貨幣理論)』が話題になっています。ごく簡単に説明すると、「政府・中央銀行が通貨を発行すれば、国の赤字は返せるのだから、国はいくら借金しても潰れない」という理論。官のマイナスは民のプラス。借金を増やしてでも積極的に財政出動することが、持続的な経済発展に繋がるという考えを、後押しするものです。102兆円を超える新年度予算案、現在の日本の金融・財政政策が、無原則な『MMT』に基づいて行われているかどうかは分かりませんが、新型コロナウイルスの感染拡大で景気の下振れリスクの高まる中、政治家の皆さんには、国民の生活を守る為の有効な使い方を、しっかりと議論して頂きたいと思います。

※『てにをは』の誤りを修正しました。

社長、歴史に学ぶ⑥

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。厚生労働省の発表によれば、2009年の新型インフルエンザにより、国内で亡くなった方の人数は203名。病原性は強くないと聞いていましたので、想像を遥かに上回る数字に、正直、驚かされました。1918~1919年の『スペイン風邪』の大流行では、日本だけでも39万人もの方々が亡くなったそうですから、人々の心に暗い影を落としたことは、間違いありません。

さて、前回の続き。日本にとっては『泣きっ面に蜂』。『反動恐慌』の収まらない1923年9月1日、今度は関東地方を直下型の大地震が襲います。関東大震災です。揺れとその後の火災により、44万戸の家屋が焼失、10万人を超える方が命を落とす大災害となりました。震災後、戦後の不況は一層深まりましたので、関東大震災後の不況を『震災恐慌』とも呼びます。ところがビジネスってのは面白いもので、正二郎の『地下足袋』はその安全性も手伝って、震災後の復興過程でも大いに重宝がられます。増産のために昼夜2交代制。設備を増やしても間に合わず、注文を断るのに苦労するほど。1923年1月の日産1,000足は、年末には1万足にまで増加したそうです。

一方、投機的な商売でメインバンクの台湾銀行に多額の借入れのあった、『鈴木商店』の金子直吉も策を練ります。政府による、所謂『震災手形』の損失補償制度を利用して損失を穴埋め。『鈴木商店』の『震災手形』の総額は、現代の物価に換算すると438億円という巨額だったものですから、影響を鑑みた政府も黙認の姿勢を取りました。損失補償制度自体が、金子直吉の政治力によるものとも言われています。

が、悪いときには悪いことが重なるもので、1920年代に入ると、セルロイド製造に使う新たな化学合成物質が開発され、『鈴木商店』の樟脳は、次第に市場を奪われていきます。更に1927(昭和2)年、当時の大蔵大臣片岡直温の失言を機に、銀行で取り付け騒ぎが始まります。『(昭和)金融恐慌』です。流石の『鈴木商店』もここで資金調達不能になり、業務停止・事業精算へと追い込まれました。更に海外では、1929年11月にはウォール街で株が大暴落。皆さんよく御存知の『世界恐慌』です。1930年には、その影響が日本にも波及します。壊滅的打撃を受けたのは農村。生糸の対米輸出が激減し、米の価格が下落したことで、『青田売り』『欠食児童』、女子の『身売り』が深刻な社会問題となりました。一般的には、1930年の経済危機を『昭和恐慌』と言い、大蔵大臣の失言による1927年の『(昭和)金融恐慌』と区別します。

『反動恐慌』『震災恐慌』『(昭和)金融恐慌』『世界恐慌』に『昭和恐慌』。恐慌・恐慌・恐慌と、恐慌のオンパレード。第一次世界大戦後の日本は、立て続けに不況の嵐に襲われます。要するに、ずうっと景気が悪かったんですね。そして感染爆発に自然災害。その窮状打開に無策な政府に対して、軍部が物申します。発言力を強めた軍は1931年の満州事変、そして泥沼の日中戦、太平洋戦争へと突き進んで行くのでありました。

さて、1900年代初頭にチャンスを掴み、その後明暗を分けた2つの会社、今はどうなっているかと申し上げますと、石橋正二郎の『日本足袋社』は、ゴム底の地下足袋開発を機にゴム工業の世界に進出。世界を代表するタイヤメーカー、ブリヂストンへと発展します。そう言えば、ブリヂストンのタイヤ再生技術、磨耗したタイヤの表面を張り替える『リトレッドタイヤ』は、足袋にゴム底を貼り付けた、地下足袋の発想とよく似ています。一方の『鈴木商店』だって、失敗例のように見えますけど、その後は凄いんですよ。双日グループ、神戸製鋼所、IHI、帝人、出光昭和シェルなど、『鈴木商店』の流れを汲む多くの会社の多くが、その後、日本の大企業へと成長して行きました。金子直吉って人は、色々と悪名も高いようなんですけど、働く仲間を大切にする彼の考えは、今も脈々と生き続けているんです。

結びに、敬称略でお届けしましたこと、関係者の皆様には、お許し下さるようお願い申し上げます。

社長、歴史に学ぶ⑤

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。人類の歴史は感染症との戦いの歴史でもあります。例えば、中世に大流行した『黒死病』を皆さんはご存知でしょうか。病原体となるペスト菌を保有するネズミに寄生していた、ノミやシラミが人間を吸血・ペスト菌を媒介して、病気が広まったと言われていて、14世紀の大流行の際は、数年でヨーロッパ全土に広まり、人口の60%が亡くなったと考えられています。

1918~1919年に世界的に大流行したのが『スペイン風邪』。こちらは、鳥インフルエンザ由来の強毒性ウイルス(H1N1亜型)が、突然変異によりヒト・ヒト感染能力を手に入れたものと考えられており、感染者数は5億人、死者数は5,000万~1億人に達したそうです。特徴的なのは、若い健康な成人が犠牲になった一方で、高齢者の多くが生き残ったこと。記録によると、1847年と1889年にもインフルエンザの大流行があって、ここで何らかの免疫を獲得した高齢者は、『スペイン風邪』の試練を乗り越えることが出来たようです。それから100年余り、時は流れ科学も進歩しました。やみくもに恐れる必要はないのかも知れませんが、今回の新型コロナウイルスの感染拡大が、速やかに終息することを切に願うばかりです。

さて、明治維新以降、『富国強兵・殖産興業』と近代化を進めて来た極東の新興国 日本にとって、1900年代初めは経済的に非常に厳しい時代でした。重工業製品はヨーロッパから買わないと手に入らず、日清・日露と度重なる戦争に海外から借り入れた戦費の返済と、貿易収支も経常収支も大赤字。そんな時、ヨーロッパを舞台に起きた戦争が、日本経済に大きな影響を与えます。今回は、2010年11月の朝礼で取り上げたエピソード。時代に翻弄されながらも偶然をチャンスに変え、日本を代表する大企業の礎を築き上げた、二人の対照的な実業家についてお話しをさせて頂きます。共感頂けるようであれば、SNSの投稿に『いいね』下さい(笑)。なお、敬称略でお届けしますので、関係者の皆様には、お許し頂けると幸いです。

1914(大正3)年、オーストリア皇太子が銃撃されたサラエボ事件を機に、戦争が勃発。第一次世界大戦です。戦争が始まると、日本を取り巻く状況は一変します。ヨーロッパの戦争参加国の工業生産能力は縮小、逆に主戦場から離れた日本には、軍需のため注文が急増、日本の輸出高が大幅に伸びました。所謂、『大戦景気』は、物流の中心の海運業からはじまり、それに伴い造船業に広まりました。海外からの輪入が途絶し供給不足となった薬品・染料など化学品工業、鉄鋼業、機械工業が活況を呈し、やや遅れて、輸出拡大に刺激された繊維業が好景気に沸きました。企業新設・拡張が盛んに計画され、1918年、年間投資計画額は、開戦時の10倍以上に達したそうです。

この頃、物価の高騰を予測して、投機的な買い付けで大儲けをしたのが、金子直吉率いる『鈴木商店』です。『鈴木商店』は、1877年頃に砂糖商として神戸で開業。台湾の樟脳油の販売権を獲得してから、番頭金子直吉の指揮のもとで急成長。樟脳油はクスノキから抽出され、防虫剤、或いはプラスチックのない当時、最先端素材であったセルロイドの製造過程で使用されていました。当時、台湾は日本の領土で世界最大の樟脳油の産地だったんです。で、その『鈴木商店』、貿易業を軸に樟脳の製造・製糖・製鋼・製粉など製造業に進出、第一次大戦が始まると、投機的な商売で規模を拡大し、1917年の年商は三大財閥の一角を凌ぐに到りました。

1918年に戦争は終結。前述の『スペイン風邪』の流行は、それを早めたとも言われています。翌年1919年に、パリのベルサイユ宮殿で講和会議が開かれヨーロッパに平和が戻ると、当時まだまだ技術力や商品力の劣る日本企業は、ヨーロッパの企業に たちまちシェアを奪い返されます。戦時中に投資した生産設備は過剰となり倒産企業が続出、1920年には株価や商品相場も半値以下に大暴落。所謂『反動恐慌』、バブルだったんですね。さすがに10倍の投資はやり過ぎです。これにより、『鈴木商店』も、大きな損失を受けることとなりました。しかし、経営難に陥って赤字工場を閉鎖すべきだとの意見が出た時も、金子直吉は「社員は家族である !!」として、工場閉鎖に断固反対したそうです。

もうひとつは、足袋メーカー『日本足袋社』。『反動恐慌』の中売れ行き不振で、抱えた在庫は足袋100万足。会社を切り盛りしていた石橋正二郎と兄の徳次郎は、この苦境を新製品分野への進出によって打開しようと、あるアイディアを思いつきます。この当時、日本の勤労者の履物は依然、稲藁で作られる伝統の『わらじ』。『わらじ』では足に十分な力が入らないため働く効率を妨げますし、釘やガラスの破片を踏み抜きやすく危険でもありました。しかも、耐久性が無いため一日に一足は履きつぶしてしまう。「だったら足袋の裏側にゴム底を貼り付けて、『地下足袋』というネーミングで売り込んでみてはどうだろう?」 標準的賃金が日給  1円程度の当時、履物代だけで年間15円の節約が出来る計算となると、これは画期的な大発明ですよね。

日本にとっては『泣きっ面に蜂』。『反動恐慌』の収まらない1923年9月1日、今度は関東地方を直下型の大地震が襲います。続きは次回。

※表現の一部を変更しました。