社長ブログ

東京オリ・パラ終わる④

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。「ウイルスは増殖の際のコピーミスにより変異を起こし、そのエラーが積み重なると最終的には自壊する。」このような現象を『エラーカタストロフの限界』と言うそうです。人流抑制が功を奏したのか、ワクチン接種の効果が現れ始めたのか、それともウイルスが勝手に自滅したのか?理由は何であれ、日本に於けるデルタ株の流行は収束に向かっているように見えます。

さて、豊臣秀吉が晩年 築いた『京都新城』の石垣の一部が、2020年5月に京都御所の南東で発見されたそうです。織田信長に取り立てられ足軽から天下人にまで上り詰めた秀吉、その人物像は気配りの出来る明るいキャラクターとして描かれることが多いですが、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスによれば、「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」そうで、『本能寺の変』の黒幕は秀吉ではないかという説もあるくらいです。

百姓の息子だったが故に、武家の棟梁である『征夷大将軍』を名乗ることを許されなかったとも言われる秀吉は、『関白』『太閤』として朝廷の権威を利用します。勿論、信長の『天下布武(=近年は室町幕府の再興と解釈されることが多い)』のような確固たる国家観はなく、”猿” とも “禿げ鼠” とも称された容姿も手伝ってか、天下統一を成し遂げた後も秀吉は、人気取り政策を実施したかと思えば冷酷に邪魔者を抹殺するなど、策略を廻らすことに終始したようです。

晩年 秀頼が誕生して以降、その迷走ぶりに拍車が掛かります。可愛い世継ぎの為に諸大名を動員して、『聚楽第』跡地に建築を始めたのが『京都新城』。3ヶ月後には突然作業を中止し、築城場所を禁裏(御所)の隣りに変更。ところが完成しても『京都新城』に秀頼が住むことはなく、秀吉の遺言に従って大坂城へ入ってしまいます。『京都新城』の守りが薄かったのが理由です。養子として既に豊臣の家督を継いでいた甥の秀次は どうなったかと言うと、秀吉から濡れ衣を着せられ出家のうえ蟄居、本人が切腹の後 三条河原で晒し首となっただけでなく、39名の妻子も全員斬首されています。

もっとも戦国の有力武将からすれば、秀吉は所詮 ぽっと出の “異分子”。『太閤検地』や『刀狩り』等、難題さえクリアしてくれれば御用済みです。生き残りを賭けて最期まで藻掻いたものの次世代にバトンを繋ぐ豊臣の夢は叶ず、260年の徳川本格政権がスタートするのでありました。歴史は語る。