社長ブログ

社長の古代史考察2026 ⑰

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。今回 取り上げさせて頂くのは、『持統天皇』その人です。「いやいや、待って下さいよ、社長。記紀編纂に深く関与したと思われる『持統天皇』まで、架空の人物だったって言うんですか?」いえいえ、そういう訳では有りません(笑)。只、以前から申し上げて来た通り『持統天皇』と言えば、『稗田阿礼(古事記の語り部)』に始まり、『豊玉姫(山幸彦の妻)』『倭姫命(日本武尊の叔母)』『倭姫王(天智天皇の皇后、万葉歌人)』と様々な仮名・変名・別名・偽名を駆使して、物語りの中に自らを忍ばせてきた天才女流作家です。自身のキャリアを、新・旧聖書やローマ帝国の歴史から借用した可能性も、充分に有るだろうと考えます。

中でも『持統天皇』を語る上で欠かせないのが、『海幸山幸』のエピソード。中大兄・大海人兄弟の真実が隠されてると考えていて、要約すると『天智天皇』と『天武天皇』は同一人物であり、『天武天皇』と『持統天皇(鸕野皇女)』は夫婦であり、且つ血の繋がった父娘だったのではないか?と申し上げました。『草壁皇子』が早世したのも、この “不識之交” が原因という訳です。『天武天皇』には『天智天皇』の娘が、他にも 3人嫁いだとされており、『鸕野皇女』の同母姉の『大田皇女』との間にも、『大津皇子』を設けています。つまり『天武天皇』と『大田皇女』の関係も、許されざる近親婚だった可能性が浮上します。

実は このような、2人の娘が実父との近親相姦によって子孫を残すという逸話は、旧約聖書の『創世記』に記されているのです。『ソドムとゴモラ』が炎に焼き尽くされた後、唯一 生き残ったのは『アブラハム』の甥である『ロト』の家族。周囲には他の男性が居ないという環境で、生命の灯火を消さない為に 2人の娘が取った行動は、『ロト』を泥酔させて事に及ぶというものでした。長女の血筋を『モアブ人』次女の血筋を『アンモン人』と呼び、『モアブ人』の血統が『ダビデ』そして『イエス』へ繋がるとされています。

645年に蘇我本宗家を滅ぼした『乙巳の変』、特に蝦夷の屋敷が火に包まれるシーンは、『ソドムとゴモラ』を連想させると申し上げたと思いますが、事件を命からがら生き延びたのが、『天智天皇=ロト』と『大田皇女』『鸕野皇女』の 2人の娘、近親相姦により誕生した 2人の皇子のうち、『イエス』へと繋がる血統が『草壁皇子=モアブ人(但し、長女と次女の関係は逆になる)』であると、読み替えることが出来るのではないでしょうか?

 

社長の古代史考察2026 ⑯

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『日本武尊』については戦果が余りにも広範囲に及ぶため、ヤマト王権の支配が確立する過程で活躍した、複数の将軍の功績を統合した架空の存在との見方が、古代史ファンの間では支配的だと思います。当ブログに於ける『日本武尊』は、持統天皇が亡き息子『草壁皇子』を投影した理想像で、物語には持統天皇本人も叔母の『倭姫命=倭姫王』として登場します。その『日本武尊』にもモデルとなる存在がいたとするならば、古事記の『白猪=伊吹山の神』が日本書紀で『大蛇=サタン』に差し替えられている点は、謎解きの参考になるかも知れません。では、当時のローマ帝国に於いて『日本武尊』に匹敵する、憧れのスーパースターと言えば誰でしょうか?それは疑いなく、マケドニアの『アレクサンドロス大王(紀元前 356年-紀元前 323年)』なのです。

10年余りの東方遠征で、エジプト・ペルシャ・インド西部まで支配下に収めたことで、『カラカラ帝』など多くのローマ皇帝が “生まれ変わり” を自称し、政策だけでなく姿かたちまで、『アレクサンドロス大王』を模倣したと言われています。『コンスタンティヌス大帝』も その一人で、東ローマ帝国の首都を『コンスタンティノープル』と名付けたのは、『アレクサンドロス大王』が自らの名を冠した都市『アレクサンドリア』を、占領地の各拠点に建設したのに肖ったからだとされています。因みに『アレクサンドロス大王』の父親、『フィリッポス 2世』も負けず劣らずの天才的な軍人で、アテネ・テーベの連合軍を撃破してギリシャを統一、弱小国だったマケドニアを大国へと飛躍させた人物です。強者同士の親子関係が険悪だったのは ご想像の通りで、父・『景行天皇』が『日本武尊』を遠ざけたのと よく似ています。

さて、世界帝国を築いた『アレクサンドロス大王』でしたが、東方遠征からの帰路 謎の熱病に襲われ、若くして この世を去ってしまいます。この点に於いても『日本武尊』と極めて類似していて、その最期の地というのが、実は『新バビロニア王国』の古代都市バビロン、つまり『ユダ王国』の 2支族が囚われの身となったとされる、『バビロン捕囚』のバビロンだったのです!『アレクサンドロス大王』が世界帝国の新たな首都に再建を望んだバビロンの神殿は、『悪霊=堕天使』の巣窟『バベルの塔』のモデルであったと言われていて、ここに『大蛇=サタン(堕天使ルシファー)』との関連性も見え隠れします。

記紀を『輪廻転生』の物語と考える当ブログ流に言えば、『コンスタンティヌス大帝=応神天皇(イエス・キリスト)』は、『神功皇后(マグダラのマリア)』が “石棺の扉” を開けたことで この世に生を受けた、『アレクサンドロス大王=日本武尊(イエス・キリスト)』の、”生まれ変わり” であるという関係が成立します。単なる混同か意図的なものかは判りませんが、東方遠征がバビロンという捕囚の地で終焉を迎えた偶然により、『アレクサンドロス大王』のエピソードは、『ソロモン王』以降の空白と歴代ローマ皇帝の物語を繋ぐ “架け橋” として、記紀の中で重要な役割を果たすことになったという訳です。

 

社長の古代史考察2026 ⑮

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『景行天皇』の治世から約 300年以上に亘り、『武内宿禰命』が朝廷に仕えることになったには理由が有って、新約聖書の外典『ニコデモ福音書』に登場する、もう一人の『ロンギノス』との混同が有ったからだと思われます。十字架に吊るされたイエスを槍で突いたローマ兵『ロンギノス』は、返り血を浴びたことにより視力を回復した一方で、イエス再臨まで死ぬことを許されないという宿命を背負わされたというのです(聖兵士『ロンギノス』の不老不死伝説)!確かに『武内宿禰命=ロンギノス』は政界を引退する前に、『応神天皇=イエス・キリスト』の誕生を見届けています。

さて、記紀が新・旧聖書のエピソードを借用しているならば、イスラエルの民にとって最も悲劇的なシーンの一つでもある、『ソロモン王=垂仁天皇』死後の歴史について何も描かれていない筈が有りません。約 3000年前に古代イスラエル王国は南北に分裂、北の『イスラエル王国』は『アッシリア帝国』に滅ぼされ、人々は世界に散り散りバラバラになったとされます。所謂『失われた10支族』ですね。『ダビデ王=崇神天皇』の血統を継ぐ南の『ユダ王国』も、その 136年後に『新バビロニア王国』の侵略を受け滅亡、指導層の多くがバビロンに連行されました。『バビロン捕囚』です。ところが『垂仁天皇』崩御の後、国を二分するような内紛が起きたとの記録も、天孫族が各地に離散したとの記録も、記紀には一切 残されていないのです。では詳しく見てみましょう。

『垂仁天皇』の後継選びは、『五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)』と、『大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)=景行天皇』の間で行われ、武器を求めた兄と皇位を求めた弟に争いは生じなかったとされます。兄・『五十瓊敷入彦命』は弟に生涯 忠誠を尽くし、天寿を全うしたというのが記紀に於ける公式見解ですが、岐阜県の伊奈波神社には異なる内容の社伝が残されていて、奥州平定に成功した『五十瓊敷入彦命』は嫉妬深い部下の讒言で朝敵とみなされ、壮絶な最期を遂げたというのです。一旦は『イスラエル王国=五十瓊敷入彦命』と『ユダ王国=景行天皇』が並び立つものの、早い段階で一方が滅ぼされたという点に於いて、『失われた10支族』のストーリーに何となく似ていると感じます。

流石に これだけでは説得力に欠けますね(苦笑)。せめて『景行天皇』以降の天孫族の中に、『バビロン捕囚』のような憂き目に会う人物が存在したならば、当ブログの言い分に耳を傾けてくれる読者の方も、少しは現れてくれることでしょうが、これが実際に存在するのですから驚きなのです!それは『熊襲建(クマソタケル)』『出雲建(イズモタケル)』や、東国の『まつろわぬ民=毛人(蝦夷)』を打ち倒しながら、『伊吹山の神』の前に倒れた天孫族のスーパースター『日本武尊』、『景行天皇』の息子に当たります。『日本武尊』とは何者なのか?続きは次回。

 

社長の古代史考察2026 ⑭

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『百襲姫命』のモデルと考えられる『デボラ』には、『蛇=悪魔(サタン)』の子を宿したという類いのエピソードは、残念ながら残されて言いません。『蛇』で思い出される世界的な著名人と言えば、自らを毒蛇に噛ませ命を絶ったエジプトの女王、『クレオパトラ 7世(紀元前 69年-紀元前 30年)』です。ローマ帝国の歴史との接点が見えたところで、今回は卑弥呼 第 2の人生、『神功皇后』の正体に迫りたいと思います。当ブログでの『神功皇后』の位置付けは、新約聖書に登場する『マグダラのマリア』です。『神』の子を宿したイエス復活の “功労者” であるだけでなく、本家・卑弥呼の後継者『田油津媛』を倒し、自ら『三韓征伐』に向かうなど、『神功皇后』の勇ましい姿は『マグダラのマリア』と言うより寧ろ、『蛇』との因縁を持つ『クレオパトラ 7世=百襲姫命』譲りと言えます。

『神功皇后』とは何者なのか?調べを進めるうちに見えて来たのが、シリアの砂漠に浮かぶ一介の都市国家だった『パルミラ』を、3世紀末にローマ帝国を脅かす “帝国” にまでに強大化させた、女帝『ゼノビア』の存在です。『ゼノビア』は『クレオパトラ 7世』の末裔を名乗り、エジプト侵攻に否定的だった夫『オダエナトゥス』が急逝すると遠征を断行、見事にクレオパトラの領土をローマ帝国から奪い返すことに成功したのです。『ゼノビア』の決断を後押ししたのが、哲学者であり主席政治顧問でもあった『ロンギノス』。『ゼノビア=神功皇后』『オダエナトゥス=仲哀天皇』『ロンギノス=武内宿禰命』と、ここまで役者が出揃うと、本仮説に反論する余地は、もはや何処にも無いのではないかと思います。

面白いのは、『ゼノビア』による地中海世界の支配が、ローマ皇帝『アウレリアヌス』の活躍により、途中で頓挫しているのに対し、『神功皇后』は九州南部の『熊襲』を平定、天孫降臨の聖地である『日向=エジプト』を奪還しただけでなく、『三韓征伐』にも成功している点です。記紀編纂チームには恐らく、『広開土王碑文』の記述内容(西暦391年に、倭人が百済と新羅を撃ち破り、臣民にした)を、知っている者が含まれていたに違いありません。エピソードを借用しながら結末は都合よく変更する点は、記紀の典型的パターンと言えます。

※誤字脱字を修正しました。

 

社長の古代史考察2026 ⑬

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。日本最古の歴史書である古事記・日本書紀が、漢文訳の新・旧聖書及びローマ帝国の歴史書を下敷きにした、二次創作である可能性について言及して参りました。それらを日本に持ち込んだのは、『大秦国=ローマ帝国』出身の異端のキリスト教徒である秦氏、物語性のある日本神話として完成させたのが、天才女流作家・持統天皇なのではないか?というのが、当ブログの考えです。『百越』の流れを汲む『日琉語族集団=倭人(国津神)』の信じた、ギリシャ神話や初期キリスト教の影響は色濃く残しつつも、彼らの信仰の対象だった『蛇』と『金星』は、『ヨハネの黙示録』を正典化した正統派の教えに倣い、日本書紀に於いては “悪魔” に修正されています。また、呪術的な『黄泉がえり』の儀式はタブーとされ、死生観は “仏教的な”『輪廻転生』に統一されています。

邪馬台国の女王・卑弥呼については、記紀に登場しないのではなく、記紀自体が卑弥呼の『輪廻転生』の物語に満ち溢れていると申し上げました。今回 取り上げる『倭迹迹日百襲姫命』は、魏志倭人伝に名前が刻まれるが故に無視できず、記紀編纂チームが最も取り扱いに困った、国津神系倭人『土蜘蛛』の女王・卑弥呼を、天孫族の系譜に取り込む為に創り出された、架空の人物であると考えます。鬼道を操り人々を惑わせた後に転生を繰り返し、最後は初代女性天皇『推古天皇(古を推し量る天皇)』として、大国・隋との対等外交を目指しました。

では、その『百襲姫命』にモデルとなる存在が居たかと言うと、旧約聖書の世界で偉大な業績を残した『大士師』でありながら、『欠史八代』からは除外された『デボラ』こそ、それに当たるのではないでしょうか?『孝昭天皇』と比定した『バラク』とは、世代的なズレが生じてしまうものの、”女性預言者” というアイデンティティは何ものにも替え難く、『バラク』は『四道将軍』の一角であり、『百襲姫命』の弟でもある『吉備津彦命(キビツヒコノミコト)』として、崇神朝に再登板すると考えるのが妥当でしょう(『デボラ』と同時代に活躍した『バラク』は、900機の戦車部隊を歩兵で撃ち破った、将軍としての側面を持つ)。

『吉備津彦命』と言えば桃太郎伝説のモデルです。旧約聖書の『デボラ』に『ナツメヤシ』の逸話が残されているように、『百襲姫命』は『桃』との強い関連性が認められます。古来より『桃』には邪気を払う力が有ると考えられ、『吉備国(岡山県)』の弥生時代の遺跡からだけではなく、箸墓古墳の位置する纏向遺跡からも、古代の『桃』の種が大量に出土して話題になりました。

 

社長の古代史考察2026 ⑫

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『民のかまど』の逸話で知られる『仁徳天皇』に当たる、”聖帝” と呼ぶに相応しい人物が、仮に『コンスタンティヌス大帝(在位:西暦 306年~337年)』から、3人の息子の治世(西暦 337年~)の間に存在したとするならば、最早、記紀の記述とローマ帝国の歴史の類似性を、唯の偶然の一致と片付ける訳には行かなくなると思います。『コンスタンティヌス大帝』以外に、”大帝(徳が高く、理想的な統治を行った皇帝)=聖帝” の称号を与えられたのは、『テオドシウス大帝(在位:西暦 379年~395年)』と『ユスティニアヌス大帝(在位:西暦 527年~565年)』の 2人。本仮説に従うならば『テオドシウス大帝』は『継体天皇』であり、『ユスティニアヌス大帝』では残念ながら年代観が合いません。

ここで『仁徳天皇』の皇位継承に纏わる、兄弟愛の話について振り返ってみましょう。皇太子として、『応神天皇』の寵愛を受けた『菟道稚朗子(ウジノワキイラッコ)』は、異母兄の『大鷦鷯尊(オオサギノミコト)=仁徳天皇』に天皇の座を譲るべく、自らの命を犠牲にします。これは “ウサギの布施” の物語、つまり『仁徳天皇』は『神兎=釈迦如来』に選ばれた、”聖帝=聖人” なのではないか?とお話ししたと思います。では、『コンスタンティヌス大帝』の寵愛を受けながらも、”聖人” の座を譲った『菟道稚朗子』のような人物と、それを譲り受けた『仁徳天皇』のような人物の組み合わせが、果たしてローマ史に存在したかと言うと、これが本当に存在したのです。それは『アリウス』と『聖アタナシウス』。『三位一体』説を巡り、西暦 325年の『ニケーア公会議』で激突した 2人です!

個人的な信条は『アリウス=菟道稚朗子』に近かったとされる、『コンスタンティヌス大帝=応神天皇』が『聖アタナシウス=仁徳天皇』を選んだのは、『アリウス派』の背後に見え隠れする “マルキオン的” 二元論を恐れ、政治的に妥協した結果だと言われています。想定外の展開で異端とされた、『アリウス派』が『菟道稚朗子』と異なる点は、じっと我慢していた訳ではないことです。西暦 335年の『ティルス公会議』では、醜聞を捏造して『聖アタナシウス』を追求。その告発内容が女性スキャンダルと政敵の殺害(切断された腕)で、なんと記紀に残された『仁徳天皇』の “黒歴史” と完全一致するのです!!

『聖アタナシウス=仁徳天皇』という “ミッシング・リンク” の発見は、応神~欽明天皇の実在性を直ちに否定するものではありませんが、彼らの系譜・業績がローマ帝国の歴史から借用した可能性は、非常に高いと言わざるを得ません。最後に もう一人の “大帝” についても触れておくと、『ユスティニアヌス大帝』は『ローマ法大全』を編纂し、『ソフィア大聖堂』を建築(再建)しています。法を整備し お寺を建てた “聖帝” と言えば!?今日のところは、この辺りで見逃しておきましょう(苦笑)。

 

社長の古代史考察2026 ⑪

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。稲荷山古墳の鉄剣発見により、『ワカタケル大王=倭王武』と比定される第21代天皇の『雄略天皇』は、考古学的に実在したと有力視される天皇の一人です。近年は纏向遺跡の発掘調査が進んだことで、真の『御肇国天皇(ㇵツクニシラススメラミコト)=初代天皇』として、第10代『崇神天皇』の名前を挙げる方も増えたと思います。そんな中で、存在したことが確定的と考えられてきた第26代『継体天皇』の経歴すら、ローマ皇帝『テオドシウス大帝』からの “借り物” である可能性を指摘している訳ですから、保守派の皆さんのみならず進歩的知識人の方々から見ても、これは荒唐無稽な “トンデモ論” ですよねぇ(苦笑)。では第25代『武烈天皇』から世代を遡り、続きを探って行きましょう。

“断絶” の『㉕武烈天皇=グラティアヌス』の父親、『㉓顕宗天皇=ヴァレンス』は『㉔仁賢天皇=ヴァレンティニアヌス1世』の弟で、即位の順番こそ日本とローマで入れ替わりますが、”雌伏” の時代を過ごした 2兄弟としての共通点が存在します。『㉒清寧天皇=ヨウィアヌス』は “中継ぎ”、『⑳安康天皇=ガッルス(副帝)』と『㉑雄略天皇=ユリアヌス』も、日羅に於いて共に兄弟です。日本に於いては皇后の連れ子の、ローマに於いては正帝の怒りを買って、”誅殺” されるのが兄『安康天皇=ガッルス』、日本では『大悪天皇』の異名を持ち、残虐な性格で知られる弟『雄略天皇=ユリアヌス』は、ローマではキリスト教の背教者として、後世の歴史家によって “悪魔” の評価を受けています。

更に その前の君主たちは “だんご 3兄弟”、長男『⑰履中天皇=コンスタンティヌス2世』、次男『⑱反正天皇=コンスタンティウス2世』、三男『⑲允恭天皇=コンスタンティンス』と、日羅でピタリ一致します。共通の敵である『住吉仲皇子=クリスプス』を排除した後、ローマでは西・中・東と帝国を 3つに分けて分割統治、日本に於いては順番に皇位を継承しますが、『⑰磐余(イワレ)』『⑱丹比(タジヒ)』『⑲遠飛鳥(トオツアスカ)』の 3ヶ所に、それぞれ拠点を置いた点でもソックリなのです!

正に芋づる式!!記紀に於ける歴史の空白『欠史八代』の正体が、旧約聖書のモーセとダビデを繋ぐ『ヨシュア+7人の大士師(女性預言者デボラを除く)』であることを、発見した際の興奮を思い出します(笑)。ところが どっこい、土壇場で大問題に気付きました。ローマ皇帝の場合は日本の皇室とは異なり、血筋が繋がらないのは止むを得ないところですが、最後に挙げた 3兄弟は『コンスタンティヌス大帝』の実の息子で、日本に置き換えると父親は第15代の『応神天皇』。つまり 3人の実父に当たる “聖帝” 第16代『仁徳天皇』が、すっぽり欠落してしまうのです。『仁徳天皇』は誰なのか?続きは次回。

 

社長の古代史考察2026 ⑩

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。当ブログに於ける『応神天皇=八幡神』は、躱刑から復活したイエス・キリスト。”黄泉がえり” を許さない記紀世界では、『鎮懐石=石棺の蓋』を開いた『神功皇后=マグダラのマリア』の息子として “転生” し、生後 40日で昇天する代わりに、 “聖帝” として知られる『コンスタンティヌス大帝』の人生を与えられました。強力な軍事力を背景に、東西に分裂していたローマ帝国を再統一(西暦 324年)、コンスタンティノーブルへの遷都(西暦 330年)を行うなど、『胎中天皇』の異名を持つ『応神天皇=八幡神』が、中世には武運の神へと変貌した理由の一つが、ここに隠されていると考えています。

ローマ帝国の歴史上、”大帝” と呼ばれた皇帝は 3人。西ゴート族の侵入により混乱し、分裂状態に陥っていた帝国を、西暦 394年に再々統一した『テオドシウス大帝』も その一人です。西暦 383年に東方皇帝『グラティアヌス』が若くして暗殺されると、帝位に就いたのは、辺境の地(セルビア付近)で軍功を挙げた後、余儀なくされた隠遁生活から呼び戻された『テオドシウス』でした。かつての戦友であり同僚であった西方の反逆者『マグヌス・マクシムス』を討ち破り、帝国の再統合は果たしたものの、広大な統一ローマを 1人で治めるのは至難の業。結局『テオドシウス大帝』亡き後は、長男の『アルカディウス』が東ローマを、次男『ホノリウス』が西ローマを統治することとなったのです。

​日本の古代史に詳しい方であれば、既にお気付きのことでしょう。正史には記されなかった『二朝並立』説を付け加えると、越前国という僻地から召喚され都入りまで 20年、そして東西ローマ帝国の首都『コンスタンティノープル=大和』と、『ローマ=筑紫』を舞台として活躍した『継体天皇』のエピソードは、『グラティアヌス=武烈天皇』『マグヌス・マクシムス=筑紫国造磐井』『アルカディウス=安閑天皇』『ホノリウス=欽明天皇』等、キャラクター設定に微妙な “味付け” の違いは有るものの、全体としては『テオドシウス大帝』の人生ソックリそのままなのです!偶然の一致かも知れないと少し時代を遡ってみると、素人歴史愛好家にとっては涎が出るような宝の山を大発見!!続きは次回 お話ししたいと思いますので、お楽しみに。

※誤りを修正しました。【誤】生後 30日で昇天→【正】生後 40日で昇天

 

社長の古代史考察2026 ⑨

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。話題はガラリと変わります。『継体天皇』という存在は、日本古代史の最大の謎の一つです。18歳の若さで崩御した『武烈天皇』の後継として、越前国から迎え入れられた天皇で、応神天皇の五世孫とはされますが、実際には『王朝交代』が有ったのではないかとの議論が絶えません。『継体天皇』とは何者なのか?当ブログが調べを進めるにつれ分かってきたのが、日本の歴史に隠された深い闇の部分です。これから 4回に分けて、その辺りの お話をさせて頂こうと思いますので、是非お付き合い下さい。

越前国と聞いて、弥生時代の日本海側には『八千戈神』を祖神とする渡来系民族の、倭人(国津神)のそれとは全く異なる文化圏が存在したと考える私が、最初に疑ったのも やはり彼らによる『王朝交代』の可能性です。西遼河の高度な文明を もたらしながら、天津神の軍事支援を受けた『大国主命≠八千戈神』に出雲の地を奪われ、海路 逃れた越国で再起を図った北東アジア出身のグループが、いよいよ政治の表舞台に姿を現したのではないかと。即位してから大和に入るまで20年を要した政治的混乱、そして西暦 527年の筑紫国造磐井との大戦争と、『王朝交代』を感じさせる要素は満載です。

しかし、この考えに待ったをかけたのが、『継体天皇』後の皇位継承を巡って起きたとされる『辛亥の変(西暦 532年)』、日本が安閑・宣化天皇(長男系・大和)と欽明天皇(次男系・九州/難波)の 2つの勢力に、真っ二つに分断されたとの仮説です。この『二朝並立』説に関して ここで詳述することは避けますが、北九州に残った国津神 最後の抵抗勢力を倒しておきながら、その後すぐに『二朝並立』とは一体どういうことなのでしょうか?謎解きのヒントは意外なところに隠されていました。次回は再び、ローマ帝国に戻ります。

 

社長の古代史考察2026 ⑧

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。日本の古代史を語る上では、中国三大宗教の一つ『道教』についても、触れない訳にはいきません。今から約 2500年前の『老子』や『荘子』の教えを土台に、神仙思想や風水などを融合、1800年前頃に体系化された中国固有の宗教と言われます。中華世界の中心に『黄帝(土星)』を据える一方で、『太白(金星)=大将軍』を西方の守護神と位置付けることからも、キリスト教などローマ帝国から流入した価値観を、数多く包含しているものと思われます。日本では西暦 794年の平安遷都の際、桓武天皇が大内裏の西北に『大将軍八神社』を配置、都を守らせたそうです。

『道教』に於いて本来、”軍事・刑罰の神” であった『太白(金星)=大将軍』は、時代の流れと共に “慈悲深い老人” へと、そのイメージを変化させて行きました。その変遷は非常に興味深いもので、『マルキオン派/マニ教』の二元論の影響を受け、イエス・キリストが ”(残酷な)裁きの神” から “愛の神” へと、変貌を遂げる過程に良く似ています。西暦 5世紀頃(1600年~1500年前)に、金星が『堕天使ルシファー=サタン』と結び付けられて以降、殺伐・処罰・軍事といった『太白(金星)=大将軍』の負の側面は、陰陽道の大凶神として知られる『金神(金星)』に、引き継がれることとなったのではないでしょうか?

『明けの明星』である堕天使ルシファーとの対比により、大天使ミカエルは西の象徴『宵の明星』とされる場合が有り、同じ金星であることから、近年のエンターテインメント作品では、両者を “双子” と解釈する設定が見受けられます。天文学や占星術の導入が進んだ平安時代には、『明けの明星』と『宵の明星』が同一の星であるという知識は貴族社会では浸透していて、『建御雷之男神(藤原不比等)=大天使ミカエル』を祖神と崇める藤原氏も、『牛頭天王(須佐之男命)=堕天使ルシファー』を『防疫神/除疫神』として受け入れ、信仰の対象としていた様子が伺われます。

新・旧聖書の世界に於いて楽園を或いは天界を追われた後、転生を繰り返し救世主となった『太白(金星)=大将軍』に、須佐之男命という名前を与え物語を紡いだのは、孫の成長に一縷の望みを託した持統天皇だというのが、当ブログの基本スタンス。仏教の世界では『薬師如来』に当たり、その宿命を負った『文武天皇』が若くして急逝したことで、記紀神話の結末は完全に闇に葬り去られてしまいました。この時 宙に浮いた救世主の座を奪ったのが藤原氏、そして藤原氏が恐れ続けた怨霊の正体が、長屋王や早良親王ではなく、実は『文武天皇=須佐之男命』だったとしたならば、色々と辻褄が合って来ると思いませんか?