社長ブログ

社長の古代史考察㉑

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼』により鏡の世界に閉じ込められ、この世に再生することを許されなかった天照大御神の魂が、罪や穢れを洗い流す『祓戸四神』の一柱、『瀬織津姫=白蛇』としての役を割り当てられたのは、『大祓詞』が確立した平安中期以降のことだろうと考えます。この頃は、須佐之男命が龍蛇神としての色彩を濃くする時期とも重なり、後の源平合戦をモチーフとした軍記物には、天孫族から『天叢雲剣』を取り戻すべく、『安徳天皇』に転生した『龍王=八岐大蛇』の話や、龍王の娘を娶って海人族に寝返った『牛頭天王=須佐之男命』の話も登場します。毎年10月の『神在月』に、神々の先導役として出雲大社に現れるウミヘビも、恐らくは須佐之男命の配下に屈した、『瀬織津姫=天照大御神』のことでしょう。

鎌倉時代に於ける禅宗の導入と元寇での大勝利は、国家の守護神としての『龍』の地位を、揺るぎなきものとしました(中国の江南~華南地方で発展した禅宗は、『百越』の龍蛇信仰を影響を強く受け継いでいる)。戦国の乱世に終止符が打たれた江戸時代、出雲大社の主が大国主命であることが再確認されたのと、ほぼ時を同じくして須佐之男命の魂は幕府の お膝元、武蔵国一宮・氷川神社に移管されています。天照大御神の復権を願う明治天皇が、東京奠都後、最初に行幸した先が氷川神社だったのは、恐らく須佐之男命の祟りを恐れたためだと思われます。出雲の国譲りや瓊瓊杵尊の天孫降臨を否定し、須佐之男命の(義理の)息子の龍蛇伸・大国主命こそが初代天皇であるというのが、江戸幕府の公式見解だったのではないでしょうか?

さて、『三貴子』の中では最も影が薄いものの、『豊受大神』として天照大御神より格上の扱いを受けることもあるのが、持統天皇が吉備内親王に授けたキャラクター、月読命です。『竹取物語』の主人公『かぐや姫』は、禁忌を犯し地上界で罪を償う月読命の仮の姿であり、記紀神話で『須佐之男命=カイン』の乱暴狼藉に驚き、機織りの道具で『陰(ホト)』を突いて亡くなった、『大日孁貴尊(オオヒルメノミコト)=天照大御神』の妹・『稚日女尊(ワカヒルメノミコト)』も、『須佐之男命=カイン』を弟に持つことから、『月読命=アベル』のことであると類推することが出来ます。

天岩戸伝説が『天照大御神=セツ』の誕生、つまり『月読命=アベル』の転生を意味しているならば、『豊受大神=月読命』が天照大御神の上位に位置すると考えるのも、分からないでは有りません。伊勢神宮外宮の地位向上を目指し、鎌倉時代に生まれた『度会神道』では、『豊受大神』を只の “給仕係” ではなく、天地創造の中心であると考えました。『倭姫命』が天照大御神を一時 匿ったことで、”元伊勢” として知られる丹後国の籠神社は、『彦火明命(天火明命)=饒速日命』を主祭神としながらも、その奥宮に『豊受大神』を祀っていることで知られます。代々、海部氏が宮司を務める籠神社は、一部の古代史ファンの間で注目のホットスポットです。丹後国と言えば『羽衣伝説』発祥の地ですから、竹取物語との接点も何となく見えてきますね。

 

 

社長の古代史考察2026 ⑳

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。旧約聖書の記述とは異なり、『高天原=楽園』を追われた『須佐之男命=カイン』に対し、『大宜都比売(オオゲツヒメ)=仔羊』という生贄を、神に捧げるチャンスを与えたことからも分かるように、『稗田阿礼=持統天皇』の暗誦した古事記は、『須佐之男命=文武天皇』を救済すべき存在として描いています。持統天皇が『三貴子』と名付けた孫 3人の中で、最も出来の悪かったのが『草壁皇子=モアブ人』唯一の男系男子、文武天皇だったということでしょう(苦笑)。

藤原氏が始祖の不比等を救世主と位置付けたように、古代から近代に至るまで日本の歴史は、「誰を救世主とするか」を巡る争いの連続だったと言えます。救世主として世間一般で最もよく知られているのは、イエス・キリストと馬小屋で生まれたという共通点を持つ、『厩戸王』の『太子信仰』でしょう。伊勢神宮と並ぶ『二所宗廟』の一角、宇佐神宮に祀られる『八幡神=応神天皇』も、救世主として日本の歴史を大きく動かして来た一柱。平安末期の最高権力者である『後白河法皇』は、周囲から『熊野権現=家津御子大神(イエス・キリスト)』の化身と囁かれました。この辺りについては、今回の謎解きとは直接的な関係は無さそうなので多くを触れないことし、ここでは『三貴子』の序列に焦点を絞って話を進めさせて頂きます。

須佐之男命を救世主と考える勢力にも幾つかの系統が在って、持統系・物部系・出雲系・熊野系の 4つ(後に『牛頭天王=須佐之男命』を信仰の対象に加えた、藤原系もカウントするならば、合計で 5つ)に分類できると思います。当ブログの主張する、『饒速日命』は須佐之男命の魂の転生であり、『神武天皇』に先んじて大和を治めた天孫族であるという点は、全てのグループの共通認識。異なる点は、持統系が記紀神話に於いて『饒速日命』の出自を隠したのに対し、物部系は『先代旧事本紀』の中で、『饒速日命』と天照大御神の孫『天火明命』が同一神であることを、明確にしているところでしょう。太陽神として生まれ変わった須佐之男命こそ、『日ノ本国』の正統な支配者であるという訳ですね。 出雲系と熊野系も基本的には、同じ考え方を踏襲していると思います。

結果として “天照神” は しばしば男神とされる訳ですが、物部系・出雲系・熊野系の違いを当ブログ的に言うと、『(天照国照彦天火明櫛玉)饒速日尊=ノア』を祖神とする物部氏・尾張氏・海部氏に、救世主の血統が受け継がれたと考えるのが物部系、初代天皇『神武天皇』とは、『須佐之男命=太陽神・アポローン』の(義理の)息子、『大国主命=龍蛇神・アスクレピオス』のことであり、皇統は国津神の血筋であると考えるのが出雲系、末法の世に入り、須佐之男命の魂は救世主『家津御子大神=阿弥陀如来』として、再臨すると考えていたのが熊野系です。

 

社長の古代史考察2026 ⑲

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。文武天皇即位のタイミングに合せ建立された薬師寺。そこに祀られる薬師三尊像は、太陽神『日光菩薩』と月神『月光菩薩』が、現世に於ける救いの神『薬師如来』を仰ぐ構成で、『文武天皇=須佐之男命(薬師如来)』を中心に据え、『元正天皇=天照大御神』『吉備内親王=月読命』の 2人が脇を固めるという、持統天皇の政権構想を反映しているのは明らかです。記紀に於ける『三貴子』の物語も本来は、文武天皇を “救世主=イエス・キリスト” として神格化する為の、プロパガンダ装置の一部として用意された物だったというのが、当ブログが辿り着いた現時点での結論です。

文武天皇の早世により、持統天皇の努力の全てが水泡に帰すと、古事記(西暦 712年)では語られなかった『蛇』と『金星』の、負の側面が日本書紀(西暦 720年)には書き加えられ、『須佐之男命=太白(大将軍)』は救われることのない “悪魔” として貶められる一方で、聖武天皇が建立した東大寺の毘盧遮那仏(西暦 752年)が、後に太陽神『大日如来』と位置付けられるなど、脇役だった筈の『天照大御神』は鎮護国家の中心、皇祖神へと崇められて行くのです。

記紀の内容が改竄されているとするならば、それには時の権力者である藤原不比等が深く関与しているだろうというのが、最近の古代史マニアに広く浸透した考え方です。なるほど確かに『イエス天使論』の藤原氏が、”救世主=イエス・キリスト” のポジションを手に入れるため、画策したのは間違いないと思いますが、神性を示す上で最も重要な『受胎告知』の場面がカットされるなど、記紀神話の範囲では大幅な譲歩を強いられているのも事実です。

持統天皇の書き上げたシナリオを、あらぬ方向に ねじ曲げたのは一体 何者なのか?宗教的動機からなのか、それとも政治的権力闘争によるものなのか?2026年に予定している投稿も残すところ僅かになりましたが、日本の長い歴史に於いて触れてはならないタブー、謎の核心部分に迫りたいと思いますので、お楽しみに!

 

社長の古代史考察2026 ⑱

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。仮説に仮説を積み重ねていますので、俄かには信じ難いと思いますが、『ロト』の妻の最期に関する伝説との類似性を聞いてもらえば、皆さんの中からも当ブログの考えに賛同してくれる人が、少しは現れてくれるかも知れません。堕落した『ソドム』の住民の中で、唯一 信仰心が厚いことで救われた『ロト』とその家族ですが、『ソドム』から脱出の最中、「決して振り返ってはならない」との神の言葉に背いた妻が、”塩の柱” にされてしまいます。

流石に『鸕野皇女』と『大田皇女』の母親、『遠智娘(オチノイラツメ)』が “塩の柱” にされたなどという話は、日本書紀に記されていませんが、『遠智娘』の父、つまり『持統天皇』の祖父に当たる『蘇我倉山田石川麻呂』は、649年に『天智天皇』から謀反の疑いを掛けられ自害、その首は切断され “塩漬け” にされたと言われているのです!父の “塩漬け” になった首を見せられて、『遠智娘』が “塩の柱” のように固まってしまったとしても、想像に難くありませんよね(苦笑)。

そもそも『乙巳の変(645年)』から『壬申の乱(672年)』まで、日本書紀に記された一連の流れが何処まで史実に基づき、何処からが虚構なのかも分かりません。才能に恵まれ人望が厚かったが故に、濡れ衣を着せられ自ら命を絶った『大津皇子』、そして皇后になっても おかしくなかったにも関わらず、薄命の生涯を閉じた『大田皇女』。この 2人については『草壁皇子=モアブ人』の血統を神聖化する為に、旧約聖書に倣って『持統天皇』が創作した、架空の人物である可能性が高いと感じています。

では、『天武天皇=天智天皇』と『鸕野皇女』を前に、『草壁皇子』を次の天皇候補と決め、6人の皇子たち(『草壁皇子』『大津皇子』『高市皇子』『忍壁皇子』『川島皇子』『志貴皇子』)が争いを起こさないことを誓ったとされる、『吉野の盟約』はどうでしょう?。兄弟喧嘩と言えば兄たちの虐めにより生死を彷徨った『大己貴命』と、その元ネタと考えられ、奴隷として売られた旧約聖書の『ヨセフ』を思い浮かべます。語られることのない『草壁皇子』の死因。対照的に描かれる『大己貴命』と『日本武尊』の物語には、『持統天皇』の『草壁皇子』に対する思いが込められていると考える私としては、異母兄弟(従兄弟を含む)による虐待死の可能性を、ちょっと勘繰ったりする訳です。

 

社長の古代史考察2026 ⑰

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。今回 取り上げさせて頂くのは、『持統天皇』その人です。「いやいや、待って下さいよ、社長。記紀編纂に深く関与したと思われる『持統天皇』まで、架空の人物だったって言うんですか?」いえいえ、そういう訳では有りません(笑)。只、以前から申し上げて来た通り『持統天皇』と言えば、『稗田阿礼(古事記の語り部)』に始まり、『豊玉姫(山幸彦の妻)』『倭姫命(日本武尊の叔母)』『倭姫王(天智天皇の皇后、万葉歌人)』と様々な仮名・変名・別名・偽名を駆使して、物語りの中に自らを忍ばせてきた天才女流作家です。自身のキャリアを、新・旧聖書やローマ帝国の歴史から借用した可能性も、充分に有るだろうと考えます。

中でも『持統天皇』を語る上で欠かせないのが、『海幸山幸』のエピソード。中大兄・大海人兄弟の真実が隠されてると考えていて、要約すると『天智天皇』と『天武天皇』は同一人物であり、『天武天皇』と『持統天皇(鸕野皇女)』は夫婦であり、且つ血の繋がった父娘だったのではないか?と申し上げました。『草壁皇子』が早世したのも、この “不識之交” が原因という訳です。『天武天皇』には『天智天皇』の娘が、他にも 3人嫁いだとされており、『鸕野皇女』の同母姉の『大田皇女』との間にも、『大津皇子』を設けています。つまり『天武天皇』と『大田皇女』の関係も、許されざる近親婚だった可能性が浮上します。

実は このような、2人の娘が実父との近親相姦によって子孫を残すという逸話は、旧約聖書の『創世記』に記されているのです。『ソドムとゴモラ』が炎に焼き尽くされた後、唯一 生き残ったのは『アブラハム』の甥である『ロト』の家族。周囲には他の男性が居ないという環境で、生命の灯火を消さない為に 2人の娘が取った行動は、『ロト』を泥酔させて事に及ぶというものでした。長女の血筋を『モアブ人』次女の血筋を『アンモン人』と呼び、『モアブ人』の血統が『ダビデ』そして『イエス』へ繋がるとされています。

645年に蘇我本宗家を滅ぼした『乙巳の変』、特に蝦夷の屋敷が火に包まれるシーンは、『ソドムとゴモラ』を連想させると申し上げたと思いますが、事件を命からがら生き延びたのが、『天智天皇=ロト』と『大田皇女』『鸕野皇女』の 2人の娘、近親相姦により誕生した 2人の皇子のうち、『イエス』へと繋がる血統が『草壁皇子=モアブ人(但し、長女と次女の関係は逆になる)』であると、読み替えることが出来るのではないでしょうか?

 

社長の古代史考察2026 ⑯

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『日本武尊』については戦果が余りにも広範囲に及ぶため、ヤマト王権の支配が確立する過程で活躍した、複数の将軍の功績を統合した架空の存在との見方が、古代史ファンの間では支配的だと思います。当ブログに於ける『日本武尊』は、持統天皇が亡き息子『草壁皇子』を投影した理想像で、物語には持統天皇本人も叔母の『倭姫命=倭姫王』として登場します。その『日本武尊』にもモデルとなる存在がいたとするならば、古事記の『白猪=伊吹山の神』が日本書紀で『大蛇=サタン』に差し替えられている点は、謎解きの参考になるかも知れません。では、当時のローマ帝国に於いて『日本武尊』に匹敵する、憧れのスーパースターと言えば誰でしょうか?それは疑いなく、マケドニアの『アレクサンドロス大王(紀元前 356年-紀元前 323年)』なのです。

10年余りの東方遠征で、エジプト・ペルシャ・インド西部まで支配下に収めたことで、『カラカラ帝』など多くのローマ皇帝が “生まれ変わり” を自称し、政策だけでなく姿かたちまで、『アレクサンドロス大王』を模倣したと言われています。『コンスタンティヌス大帝』も その一人で、東ローマ帝国の首都を『コンスタンティノープル』と名付けたのは、『アレクサンドロス大王』が自らの名を冠した都市『アレクサンドリア』を、占領地の各拠点に建設したのに肖ったからだとされています。因みに『アレクサンドロス大王』の父親、『フィリッポス 2世』も負けず劣らずの天才的な軍人で、アテネ・テーベの連合軍を撃破してギリシャを統一、弱小国だったマケドニアを大国へと飛躍させた人物です。強者同士の親子関係が険悪だったのは ご想像の通りで、父・『景行天皇』が『日本武尊』を遠ざけたのと よく似ています。

さて、世界帝国を築いた『アレクサンドロス大王』でしたが、東方遠征からの帰路 謎の熱病に襲われ、若くして この世を去ってしまいます。この点に於いても『日本武尊』と極めて類似していて、その最期の地というのが、実は『新バビロニア王国』の古代都市バビロン、つまり『ユダ王国』の 2支族が囚われの身となったとされる、『バビロン捕囚』のバビロンだったのです!『アレクサンドロス大王』が世界帝国の新たな首都に再建を望んだバビロンの神殿は、『悪霊=堕天使』の巣窟『バベルの塔』のモデルであったと言われていて、ここに『大蛇=サタン(堕天使ルシファー)』との関連性も見え隠れします。

記紀を『輪廻転生』の物語と考える当ブログ流に言えば、『コンスタンティヌス大帝=応神天皇(イエス・キリスト)』は、『神功皇后(マグダラのマリア)』が “石棺の扉” を開けたことで この世に生を受けた、『アレクサンドロス大王=日本武尊(イエス・キリスト)』の、”生まれ変わり” であるという関係が成立します。単なる混同か意図的なものかは判りませんが、東方遠征がバビロンという捕囚の地で終焉を迎えた偶然により、『アレクサンドロス大王』のエピソードは、『ソロモン王』以降の空白と歴代ローマ皇帝の物語を繋ぐ “架け橋” として、記紀の中で重要な役割を果たすことになったという訳です。

 

社長の古代史考察2026 ⑮

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『景行天皇』の治世から約 300年以上に亘り、『武内宿禰命』が朝廷に仕えることになったには理由が有って、新約聖書の外典『ニコデモ福音書』に登場する、もう一人の『ロンギノス』との混同が有ったからだと思われます。十字架に吊るされたイエスを槍で突いたローマ兵『ロンギノス』は、返り血を浴びたことにより視力を回復した一方で、イエス再臨まで死ぬことを許されないという宿命を背負わされたというのです(聖兵士『ロンギノス』の不老不死伝説)!確かに『武内宿禰命=ロンギノス』は政界を引退する前に、『応神天皇=イエス・キリスト』の誕生を見届けています。

さて、記紀が新・旧聖書のエピソードを借用しているならば、イスラエルの民にとって最も悲劇的なシーンの一つでもある、『ソロモン王=垂仁天皇』死後の歴史について何も描かれていない筈が有りません。約 3000年前に古代イスラエル王国は南北に分裂、北の『イスラエル王国』は『アッシリア帝国』に滅ぼされ、人々は世界に散り散りバラバラになったとされます。所謂『失われた10支族』ですね。『ダビデ王=崇神天皇』の血統を継ぐ南の『ユダ王国』も、その 136年後に『新バビロニア王国』の侵略を受け滅亡、指導層の多くがバビロンに連行されました。『バビロン捕囚』です。ところが『垂仁天皇』崩御の後、国を二分するような内紛が起きたとの記録も、天孫族が各地に離散したとの記録も、記紀には一切 残されていないのです。では詳しく見てみましょう。

『垂仁天皇』の後継選びは、『五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコノミコト)』と、『大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)=景行天皇』の間で行われ、武器を求めた兄と皇位を求めた弟に争いは生じなかったとされます。兄・『五十瓊敷入彦命』は弟に生涯 忠誠を尽くし、天寿を全うしたというのが記紀に於ける公式見解ですが、岐阜県の伊奈波神社には異なる内容の社伝が残されていて、奥州平定に成功した『五十瓊敷入彦命』は嫉妬深い部下の讒言で朝敵とみなされ、壮絶な最期を遂げたというのです。一旦は『イスラエル王国=五十瓊敷入彦命』と『ユダ王国=景行天皇』が並び立つものの、早い段階で一方が滅ぼされたという点に於いて、『失われた10支族』のストーリーに何となく似ていると感じます。

流石に これだけでは説得力に欠けますね(苦笑)。せめて『景行天皇』以降の天孫族の中に、『バビロン捕囚』のような憂き目に会う人物が存在したならば、当ブログの言い分に耳を傾けてくれる読者の方も、少しは現れてくれることでしょうが、これが実際に存在するのですから驚きなのです!それは『熊襲建(クマソタケル)』『出雲建(イズモタケル)』や、東国の『まつろわぬ民=毛人(蝦夷)』を打ち倒しながら、『伊吹山の神』の前に倒れた天孫族のスーパースター『日本武尊』、『景行天皇』の息子に当たります。『日本武尊』とは何者なのか?続きは次回。

 

社長の古代史考察2026 ⑭

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『百襲姫命』のモデルと考えられる『デボラ』には、『蛇=悪魔(サタン)』の子を宿したという類いのエピソードは、残念ながら残されて言いません。『蛇』で思い出される世界的な著名人と言えば、自らを毒蛇に噛ませ命を絶ったエジプトの女王、『クレオパトラ 7世(紀元前 69年-紀元前 30年)』です。ローマ帝国の歴史との接点が見えたところで、今回は卑弥呼 第 2の人生、『神功皇后』の正体に迫りたいと思います。当ブログでの『神功皇后』の位置付けは、新約聖書に登場する『マグダラのマリア』です。『神』の子を宿したイエス復活の “功労者” であるだけでなく、本家・卑弥呼の後継者『田油津媛』を倒し、自ら『三韓征伐』に向かうなど、『神功皇后』の勇ましい姿は『マグダラのマリア』と言うより寧ろ、『蛇』との因縁を持つ『クレオパトラ 7世=百襲姫命』譲りと言えます。

『神功皇后』とは何者なのか?調べを進めるうちに見えて来たのが、シリアの砂漠に浮かぶ一介の都市国家だった『パルミラ』を、3世紀末にローマ帝国を脅かす “帝国” にまでに強大化させた、女帝『ゼノビア』の存在です。『ゼノビア』は『クレオパトラ 7世』の末裔を名乗り、エジプト侵攻に否定的だった夫『オダエナトゥス』が急逝すると遠征を断行、見事にクレオパトラの領土をローマ帝国から奪い返すことに成功したのです。『ゼノビア』の決断を後押ししたのが、哲学者であり主席政治顧問でもあった『ロンギノス』。『ゼノビア=神功皇后』『オダエナトゥス=仲哀天皇』『ロンギノス=武内宿禰命』と、ここまで役者が出揃うと、本仮説に反論する余地は、もはや何処にも無いのではないかと思います。

面白いのは、『ゼノビア』による地中海世界の支配が、ローマ皇帝『アウレリアヌス』の活躍により、途中で頓挫しているのに対し、『神功皇后』は九州南部の『熊襲』を平定、天孫降臨の聖地である『日向=エジプト』を奪還しただけでなく、『三韓征伐』にも成功している点です。記紀編纂チームには恐らく、『広開土王碑文』の記述内容(西暦391年に、倭人が百済と新羅を撃ち破り、臣民にした)を、知っている者が含まれていたに違いありません。エピソードを借用しながら結末は都合よく変更する点は、記紀の典型的パターンと言えます。

※誤字脱字を修正しました。

 

社長の古代史考察2026 ⑬

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。日本最古の歴史書である古事記・日本書紀が、漢文訳の新・旧聖書及びローマ帝国の歴史書を下敷きにした、二次創作である可能性について言及して参りました。それらを日本に持ち込んだのは、『大秦国=ローマ帝国』出身の異端のキリスト教徒である秦氏、物語性のある日本神話として完成させたのが、天才女流作家・持統天皇なのではないか?というのが、当ブログの考えです。『百越』の流れを汲む『日琉語族集団=倭人(国津神)』の信じた、ギリシャ神話や初期キリスト教の影響は色濃く残しつつも、彼らの信仰の対象だった『蛇』と『金星』は、『ヨハネの黙示録』を正典化した正統派の教えに倣い、日本書紀に於いては “悪魔” に修正されています。また、呪術的な『黄泉がえり』の儀式はタブーとされ、死生観は “仏教的な”『輪廻転生』に統一されています。

邪馬台国の女王・卑弥呼については、記紀に登場しないのではなく、記紀自体が卑弥呼の『輪廻転生』の物語に満ち溢れていると申し上げました。今回 取り上げる『倭迹迹日百襲姫命』は、魏志倭人伝に名前が刻まれるが故に無視できず、記紀編纂チームが最も取り扱いに困った、国津神系倭人『土蜘蛛』の女王・卑弥呼を、天孫族の系譜に取り込む為に創り出された、架空の人物であると考えます。鬼道を操り人々を惑わせた後に転生を繰り返し、最後は初代女性天皇『推古天皇(古を推し量る天皇)』として、大国・隋との対等外交を目指しました。

では、その『百襲姫命』にモデルとなる存在が居たかと言うと、旧約聖書の世界で偉大な業績を残した『大士師』でありながら、『欠史八代』からは除外された『デボラ』こそ、それに当たるのではないでしょうか?『孝昭天皇』と比定した『バラク』とは、世代的なズレが生じてしまうものの、”女性預言者” というアイデンティティは何ものにも替え難く、『バラク』は『四道将軍』の一角であり、『百襲姫命』の弟でもある『吉備津彦命(キビツヒコノミコト)』として、崇神朝に再登板すると考えるのが妥当でしょう(『デボラ』と同時代に活躍した『バラク』は、900機の戦車部隊を歩兵で撃ち破った、将軍としての側面を持つ)。

『吉備津彦命』と言えば桃太郎伝説のモデルです。旧約聖書の『デボラ』に『ナツメヤシ』の逸話が残されているように、『百襲姫命』は『桃』との強い関連性が認められます。古来より『桃』には邪気を払う力が有ると考えられ、『吉備国(岡山県)』の弥生時代の遺跡からだけではなく、箸墓古墳の位置する纏向遺跡からも、古代の『桃』の種が大量に出土して話題になりました。

 

社長の古代史考察2026 ⑫

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『民のかまど』の逸話で知られる『仁徳天皇』に当たる、”聖帝” と呼ぶに相応しい人物が、仮に『コンスタンティヌス大帝(在位:西暦 306年~337年)』から、3人の息子の治世(西暦 337年~)の間に存在したとするならば、最早、記紀の記述とローマ帝国の歴史の類似性を、唯の偶然の一致と片付ける訳には行かなくなると思います。『コンスタンティヌス大帝』以外に、”大帝(徳が高く、理想的な統治を行った皇帝)=聖帝” の称号を与えられたのは、『テオドシウス大帝(在位:西暦 379年~395年)』と『ユスティニアヌス大帝(在位:西暦 527年~565年)』の 2人。本仮説に従うならば『テオドシウス大帝』は『継体天皇』であり、『ユスティニアヌス大帝』では残念ながら年代観が合いません。

ここで『仁徳天皇』の皇位継承に纏わる、兄弟愛の話について振り返ってみましょう。皇太子として、『応神天皇』の寵愛を受けた『菟道稚朗子(ウジノワキイラッコ)』は、異母兄の『大鷦鷯尊(オオサギノミコト)=仁徳天皇』に天皇の座を譲るべく、自らの命を犠牲にします。これは “ウサギの布施” の物語、つまり『仁徳天皇』は『神兎=釈迦如来』に選ばれた、”聖帝=聖人” なのではないか?とお話ししたと思います。では、『コンスタンティヌス大帝』の寵愛を受けながらも、”聖人” の座を譲った『菟道稚朗子』のような人物と、それを譲り受けた『仁徳天皇』のような人物の組み合わせが、果たしてローマ史に存在したかと言うと、これが本当に存在したのです。それは『アリウス』と『聖アタナシウス』。『三位一体』説を巡り、西暦 325年の『ニケーア公会議』で激突した 2人です!

個人的な信条は『アリウス=菟道稚朗子』に近かったとされる、『コンスタンティヌス大帝=応神天皇』が『聖アタナシウス=仁徳天皇』を選んだのは、『アリウス派』の背後に見え隠れする “マルキオン的” 二元論を恐れ、政治的に妥協した結果だと言われています。想定外の展開で異端とされた、『アリウス派』が『菟道稚朗子』と異なる点は、じっと我慢していた訳ではないことです。西暦 335年の『ティルス公会議』では、醜聞を捏造して『聖アタナシウス』を追求。その告発内容が女性スキャンダルと政敵の殺害(切断された腕)で、なんと記紀に残された『仁徳天皇』の “黒歴史” と完全一致するのです!!

『聖アタナシウス=仁徳天皇』という “ミッシング・リンク” の発見は、応神~欽明天皇の実在性を直ちに否定するものではありませんが、彼らの系譜・業績がローマ帝国の歴史から借用した可能性は、非常に高いと言わざるを得ません。最後に もう一人の “大帝” についても触れておくと、『ユスティニアヌス大帝』は『ローマ法大全』を編纂し、『ソフィア大聖堂』を建築(再建)しています。法を整備し お寺を建てた “聖帝” と言えば!?今日のところは、この辺りで見逃しておきましょう(苦笑)。