社長ブログ

まだ続くの?社長の謎解きシリーズ③

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。双子の海幸彦と山幸彦には、もう 1人兄弟がいるという設定で、その名は『火須勢理命(ホツセリノミコト)』。古事記では物語に絡んでこない正体不明の存在なのですが、日本書紀の一説によると『火闌降命』または『火酢芹命』と書いて、それは海幸彦と同一人物だと説明しています。海幸彦が 2人いると言うのは一体どういうことなのでしょうか?或る日、海幸彦と山幸彦は “釣り針” と “弓矢” を交換し、お互いの職業を入れ替えた後、山幸彦は海で失踪してしまいます。3年後に『綿津見の宮殿』から戻ったとされますが、何か怪しくありませんか?山幸彦 不在の間、何らかの秘密の工作が進められていたと考えることも可能です。『火須勢理命』とは何者なのか?『海幸山幸』の物語には、重大な歴史の真実が隠されているに違いありません。

一方の『中大兄皇子』と『大海人皇子』兄弟も疑惑だらけです。皇極天皇が『舒明天皇』と再婚したのが626年であるならば、626年生まれの『中大兄皇子』も前夫の『高向王=蘇我入鹿』の息子だった可能性は否定できません。更に『額田王』と2人の “三角関係” のエピソードは、漫画家・あだち充の代表作『タッチ』のように、兄弟が見分けがつかないくらいソックリの、双子だったことを連想させます。そこで当ブログでは、「祭祀を司る『海部氏』に預けられたのが、海幸彦こと双子の兄の『大海人皇子』、宮廷で崇仏派の父・蘇我入鹿に仕えたのが、山幸彦こと双子の弟の『中大兄皇子』と仮定し、推理を進めさせて頂きます。

この説に従うと『中大兄皇子』には、蘇我入鹿を殺害する動機が見つかりません。動機が有るとしたら、里子に出されたことを恨む『大海人皇子』の方です。そうなんです!何処かのタイミングで 2人は “釣り針” と “弓矢” を交換した。つまり、乙巳の変で蘇我入鹿を殺めたのは、『中大兄皇子』に成り済ました『大海人皇子=海幸彦』。彼が逃亡し身を隠す間、犯人に仕立て上げられた『中大兄皇子』が、無実の罪で牢獄に閉じ込められることとなった、もう一人の『大海人皇子=海幸彦』。ここに ” 2人の海幸彦” のトリックが成立するのです。

 

まだ続くの?社長の謎解きシリーズ②

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。『草壁皇子』の死に関する記述は、日本書紀に殆ど残されていません。このように、「語ってはならない歴史の真相を、こっそり神話の中に忍ばせる」という手法(『日本武尊』が神話上の存在だと言ったら、保守派の方には お叱りを受けそうですが、エピソードの中に神話的な要素を含んでいるのも事実なので、そういう理解で お許し下さい)が、持統天皇の作風なのかも知れないと考えて色々と探していると、『海幸山幸』物語の中に歴史を ひっくり返すような “大発見” をしました。順を追って見ていきましょう。

前々回お伝えした通り、持統天皇がアマテラス安住の地を伊勢に定めた、『倭姫(ヤマトヒメ)』の生まれ変わりであるならば、皇極(斉明)天皇は国津神との “宗教戦争” に敗れたアマテラスを、『笠縫邑(カサヌイノムラ)』に匿った『豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)』に当たります。その皇極(斉明)天皇が『豊鍬入姫』同様に、何らかの争いに敗れた後に持ち去って、密かに隠し続けた “聖なる物” が有ったとしたら、それは『天皇紀』、焼失したとされる漢文訳の新・旧聖書ではないでしょうか?つまり、乙巳の変で譲位を迫られた皇極天皇は、『天皇紀』を隠し持って『中大兄皇子』と共に北九州へ逃亡したのです。

『九州王朝』説は以前からも有りました。この説では、663年の『白村江の戦い』敗戦後に北九州に築かれた土塁や防人の制度は、近江『大津宮』を守るには少々 大袈裟であり、当時の都が朝鮮半島に近い『太宰府』に在った証拠ではないかと考えます。乙巳の変の後に『大化の改新』を推進、勝者である筈の崇仏派『孝徳天皇』が、『難波宮』で孤独死したというのも何だか不自然です。例えば畿内に残った『大海人皇子』が『孝徳天皇』と組み、北九州で重祚した斉明天皇を支える『中大兄皇子』と対立したとも考えられます。南北朝ならぬ『東西朝』時代の到来です。

当ブログでは『大海人皇子』は『高向王=蘇我入鹿』の息子の『漢皇子』、『舒明天皇』とは血の繋がりが無いことから幼少期に里子に出され、海人一族の『海部氏』に育てられたが故に、『大海人皇子』と呼ばれると考えます。長男として育てられながら、” 2番目の兄” を意味する名を持つ『中大兄皇子』は、『大海人皇子』の異父弟となります。ここまでなら、既に語り尽くされた良くあるパターン。ところが、歴史というものは もっともっと複雑怪奇、そして記紀神話の中には持統天皇により、こっそりと真実が隠されていたのです。次回以降、『海幸山幸』を深堀りして行きますので、お楽しみに。

 

まだ続くの?社長の謎解きシリーズ①

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。私達は日本の歴史を “男目線” で見ていたことを、反省しなければなりません。古事記・日本書紀は卑弥呼が現れないどころか、卑弥呼の『輪廻転生』の物語で満ち溢れています。”ウサギの布施” の『ゴータマ・シッダールタ』よろしく修行を積み重ね、彼女の魂は救済されて “仏様(如来)” になったと言うことでしょう。『隋書倭国伝』に記される倭王の名は『多利思北孤(タリシヒコ)』。卑弥呼に第 3の人生を与える為、男王は『推古天皇』という女帝だったという設定に変更され、記紀は “文学作品” としての完成度を高めています。『紫式部』や『清少納言』など、日本で女流作家が誕生したのは平安時代と言われていますが、いやいや、持統天皇こそが世界の女流作家の先駆けです。

その持統天皇が自らを重ね合わせる『倭姫命』のもう一つの見せ場が、日本古代史のヒーローで甥の『日本武尊(ヤマトタケルノミコト)』に、”謎掛けのアイテム(=生きる知恵)” を授けるシーン。『熊襲(クマソ)』討伐の成功や焼津で火攻めに遭った際 命拾したのは、共に『倭姫命』の助力 有ってこそだったのですが、慢心したのか『日本武尊』は、叔母に渡された『草薙剣』を持たずに『伊吹山の神』との戦いに挑み、結局 命を失うことになります。持統天皇 本人は一人息子の『草壁皇子(クサカベノミコ)』を、28歳の若さで失っています。もう お判りですね?『日本武尊』の物語には、持統天皇の『草壁皇子』への想いが投影されているのです。

『天岩戸』神話には天皇家の、日常の一コマが映し出されています。お人形で “ごっこ遊び” を楽しむ姉妹のところに、よちよち歩きで乱入しては悪戯を重ねる末っ子の腕白坊主。「パパ~、軽(カル)ちゃんが お馬さんの人形 壊した!」「ママ~、軽ちゃんがウンチ漏らした!!」世界観をぐちゃぐちゃに壊されて大泣きする姉 2人に、頭を小突かれて弟もワンワン泣きだす始末。3人の子宝に恵まれ幸せな息子夫婦と、それを優しく見守る お婆ちゃん。そんな微笑ましい光景が目に浮かびませんか?へそを曲げて部屋に籠る孫娘のご機嫌取りで、道化役の『天鈿女命(アメノウズメ)』を買って出たのは、もしかしたら持統天皇 本人だったかも知れません。『三貴子』とは持統天皇の 3人の孫、『元正天皇』『吉備内親王(キビナイシンノウ)』『文武天皇』のことなのです。

そこに突然の不幸が訪れます。『国生み』神話で命を落とした『伊邪那美命』とは、早世した『草壁皇子』のことです。「えっ、『伊邪那美命』って女神ですよね?」と、突っ込まれそうですが、黄泉の国で別れ際に放った「一日に1000人殺す」という暴言も、『草壁皇子=日本武尊(その残忍で卑怯な性格から、天皇に成れなかったとされる)』ならば、何となく腑に落ちませんか?そして『三貴子』は何故か男神から生まれますが、その理由も これで明らかになりました。『伊邪那岐命』のモデルこそ、『三貴子』の母・『元明天皇』その人だからです。

 

社長はこう読む、古事記・日本書紀⑳

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。蘇我入鹿が『ヨシュア』の生まれ変わりであることが確定的となると、今まで学んだ日本史の何処までが “史実” で、何処からが宗教的な教訓としての “物語” なのか、訳が分からなくなって来ました(苦笑)。兎に角、卑弥呼の第 3の人生について話を進めましょう。1-①『丁未の乱』という “宗教戦争” の後、1-②初代女帝として『推古天皇』が即位、1-③仏教という “異国思想” の導入や 1-④遣隋使の派遣など、1-⑤厩戸王が摂政として政務をサポートしました。1-⑥『推古天皇』が崩御すると、蘇我入鹿の横暴が始まり政局は再び混乱、1-⑦女帝『皇極(斉明)天皇』が即位して国を治めることになります。 この流れには何処か既視感が有りますよね。

そう、一つは皆さんご存知の『魏志倭人伝』、卑弥呼の人生の “元ネタ” です。2-①所謂『倭国大乱』を鎮める為、2-②邪馬台国は女王に卑弥呼を擁立し 2-⑤弟が政治を補佐、2-④『魏』に使者を送って『親魏倭王』の称号を得ます。2-⑥卑弥呼が没すると国は再び乱れ、2-⑦男王に代わり『台与(トヨ)』が即位することで国が安定するなど、両者はソックリです。中国に対して “媚び” を売るか “喧嘩” を売るかの違いは、原典で学んだ教訓を活かす記紀のお決まりパターン(苦笑)。しっかりと “リベンジ” を果たしていますので、『推古天皇(古を推し量る天皇)』が、卑弥呼に与えられた第 3の人生で間違いないでしょう。

もう一つ似た話が有って、それは 3-①天照大御神(天津神) vs 倭大国魂神(国津神)の “宗教戦争”。記紀に於いて卑弥呼に与えられた最初の人生です。3-②祭祀王の百襲姫が大物主のハニートラップに騙され、3-⑥疫病による国乱を許した後に非業の死を遂げると、3-⑦後を継いだ『豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)』が、当ブログでは “トヨ” 繋がりで『台与』に当たり、3-③災いをもたらした “異国の神”、天照大御神を連れて都から敗走します。3-⑤国政を支える役割を果たしたのが崇神天皇。3-④使者は中国に送るのではなく、『大加羅国(タイカラコク)』から迎えた形になっています。

この話には続きが有って、3-⑧その後『豊鍬入姫命』の襷を受け継ぎ各地を転々、最終的に天照大御神を伊勢に送り届けたのが、『倭姫命(ヤマトヒメノミコト)』です。『魏志倭人伝』に『台与』の後継者の記述は有りませんが、2-⑧恐らく『土蜘蛛』の女性首長にも『倭姫命』のような存在がいて、邪馬台国の祭祀を引き継いだのではないかと考えます。では、1-⑧『皇極(斉明)天皇』にとっての『倭姫命』はと言うと、それが『持統天皇(皇統を維持した女帝)』。「あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」 “卑弥呼劇場” の第 3幕は推古~皇極(斉明)~持統と続き、後に奈良の都を彩って行くのでありました。

※分かり難い表現が有りましたので、修正しました。

 

社長はこう読む、古事記・日本書紀⑲

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。東京大学の大橋順教授・渡部裕介特任助教の発表した、『都道府県別の縄文人・渡来人由来のゲノム比率』から見て、黒潮に乗って太平洋側から淡路島に上陸した、『倭人』とは別のグループ(『鯨面文身』の風習のない民族)が存在すると考えています。近畿・四国(卑弥呼の時代には、『倭種≒倭人?』が住んでいたと伝えられる地域。南海トラフ地震により集落が壊滅し、”空白地帯” となっていたのかも知れません。)及び北陸に進出し、『倭の五王』が朝鮮半島の軍事的支配権に固執する間に、一気に勢力を拡大したのでしょう。天孫族とは何者なのか?倭国の東に どのような世界が拡がっていたのか?残念ながら『宋書倭国伝』からは、読み取ることが出来ません。

さて、記紀の世界で卑弥呼に与えられた第 3の人生を語る前に、先ずは関連情報をアップデートさせて下さい。『排仏崇仏論争』で蘇我氏と物部氏は激しく対立、587年に起こった争いを『丁未の乱』と言います。結果は排仏派の物部氏の惨敗で、『四天王寺御手印縁起』によると、『物部守屋』の子孫ら 273人が四天王寺の奴婢にされています。四天王寺を建立したのは聖徳太子。当ブログに於いては聖徳太子は実在せず、厩戸王と蘇我入鹿は同一人物。『厩戸王=イエス』で “ブライトサイド”、『蘇我入鹿=ヨシュア』の “ダークサイド” で、両者は表裏一体という立場です。『丁未の乱』という “宗教戦争” の結果、『饒速日命=ノア』の呪いにより永遠に隷属する運命を与えられた『物部氏=カナーン人』を、生かすも殺すも全ての権利は『厩戸王=蘇我入鹿=ヨシュア』の手中に収まりました。旧約聖書と日本古代史に於ける この合わせ鏡のような類似性は、私には偶然の産物であるとは思えません。

まだ有ります。『カナン』の地に入り、各部族に土地を割り当てた『ヨシュア』は、イスラエルの民 団結の為 偶像崇拝を止め、ヤハウェのみを信仰することを誓います。これを『シケムの契約』と呼びます。一方の日本では、強敵の物部軍を前にして、厩戸王は四天王像を彫って必勝祈願。勝利の暁には仏塔を造って仏教を広める約束をしていて、何だか『シケムの契約』とソックリです。二つの場面が『ヨルダン川』と『餌香川(エカガワ)』という、河原を舞台として描かれていることまで重なります。但し『厩戸王=蘇我入鹿=ヨシュア』つまり、『シケムの契約』を求めた張本人が、時間も空間も飛び越えて、お釈迦様とヤハウェに “二股” を掛けた格好ですから、そりゃ一神教の神様は見逃しません。645年の入鹿暗殺は “身から出た錆”、天罰が落ちたのです(苦笑)。

 

社長はこう読む、古事記・日本書紀⑱

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。埼玉県には『吉見百穴(ヨシミノヒャクアナ)』という遺跡が在ります。岩肌に掘られた 200を超える横穴は、一般的には お墓と考えられていますが、穴居人とされる『土蜘蛛』の、住居跡と考える説も有るようです。さて、北九州の『土蜘蛛』に話を戻すと、『景行天皇』の命令に従わず抵抗を続けたのが、豊後の『鼠の石窟(ネズミノイワヤ)』に住む『白・青』の 2人に、『禰疑野(ネギノ)』に住む『打猿(ウチザル)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)』の 3人。時代設定のズレは脇に置いておくとして、『 2+ 3= 5』の『倭の五王』と同じ組み合わせが、記紀にもしっかりと記述されていました。

「邪馬台国とヤマト王権の間に、連続性がないと考えるのは社長の自由ですが、豊後の『土蜘蛛』の猛者 5人が『倭の五王』では、流石に “小粒” 過ぎやしませんか?」そんな批判が聞こえて来そうです(苦笑)。寧ろ “小粒” が良いのです。何故なら天孫族の歴史書には、ヤマト王権以外に日本を代表する地方政権が、存在してはならないのですから。『豊後国風土記』には、『五馬媛(イツマヒメ)』『頸猴(ウナサル)』『小竹鹿奥(シノカオサ』『小竹鹿臣(シノカオミ)』『土蜘蛛八十女(ツチグモヤソメ)』など、他にも多くの『土蜘蛛』が登場します。恐らくは渡来系古墳人に押し出され、全国に散らばった縄文系弥生人(=国津神)グループの一つでしょう。

彼等こそがユダヤ的な文化や水稲耕作の担い手であり、その源流は中国の『珠江デルタ』以南に存在すると考えます(言語的にはミャンマーに近いとの研究も)。或る者は黒潮に乗り琉球諸島を経由、豊後水道を通って北九州に邪馬台国を、その一部は対馬海流に流され、上陸した朝鮮半島南端に『伽耶』諸国を、また或る者は大陸沿いに東シナ海を北上して、長江の下流域に『呉(春秋戦国時代)』を築いたのではないでしょうか?広域ネットワークも存在したことでしょう。ハプログループD(Y染色体)を中心とした海洋民族、全身にタトゥーを施した所謂『倭人』たちは、決して “小粒” な集団では なかったと思います。

日本各地に見られる『土蜘蛛』一族の首長には、『女、姫・媛』の付く名を持つ者が 14名もいて、その中には卑弥呼や『台与(トヨ)』本人、或いは 2人の後を継ぐ女性祭祀王が含まれる可能性は充分に有ります。つまり、『土蜘蛛』という蔑称を与えられ、記紀の中では徹底的に見下される存在ですが、実態としては『空白の四世紀』を越えても尚、大国の『宋』に対して『倭王(男性とは限らない)』を名乗るだけの勢力を維持し、邪馬台国は存続し続けたというのが、私の考えです。

それにしても物語上の設定とはいえ、卑弥呼の後継者と目される『田油津媛』を最後に討ち取るのが、天孫族に生まれ変わった卑弥呼自身とは、何とも過酷な試練です。このように、記紀の編集方針は『持統天皇』の即位によって、仏教的な色彩を濃くします。初代 “女王蜘蛛” だった卑弥呼は『輪廻転生』を繰り返し、”悪魔の子” を宿した百襲姫、”神の子” を宿した神功皇后に続き、第 3の人生が与えられます。続きは次回。

 

 

社長はこう読む、古事記・日本書紀⑰

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。私の地元の武蔵一宮『氷川神社』、現在の主祭神は須佐之男命ですが、江戸初期迄は『荒脛巾(アラハバキ)』を祀っていたようです。但し、埼玉に残る伝説の主は『蛇神』でなく『龍神』。恐らくは、ヤハウェに奪われた手足を再び『蛇』に与え、『龍≠サタン』とすることで縄文以来の信仰を守って来たのでしょう。高天原から降臨したとされる天孫族が、倭国古来の土着信仰に疎かったのは仕方ないとして、記紀編集部の新・旧聖書に関する理解度も、決して高くはなかった可能性が示された点は、私にとって大きな発見と言えます。もし そこに悪意を持った誰かが紛れ込み、天皇家を未来永劫 精神的に支配する為、編集ミスを意図的に誘発していたとしたら?そう思うと、ちょっとゾッとしますね・・・

さて今回は日本古代史の謎の一つ、『倭の五王(讃・珍・済・興・武)』の正体に迫ってみたいと思います。『安東大将軍』の称号を求め、413~478年に中国の王朝『宋』に朝貢した『倭の五王』とは誰なのか?古事記・日本書紀には記載がないとして、室町時代から様々な議論が なされていたようです。1968年に埼玉県の『稲荷山古墳』から鉄剣が出土して以降、倭王『武』は『雄略天皇』で確定的とし、『讃・珍・済・興・武』をそれぞれ『履中・反正・允恭・安康・雄略』とする説や、『応神・仁徳・允恭・安康・雄略』とする説などが定着しています。どちらが正しいのか、どちらも正しくないのか?『宋書倭国伝』の記載から、『讃・珍』の 2人と『済・興・武』の 3人を分けて捉える点は、両者で共通しています。

『邪馬台国北九州説』支持に舵を切った私としては、天孫族の国家統一に敵対する勢力の中に、条件に該当する存在が隠されていると踏んで調べを進めましたが、有名どころの『日本武尊(ヤマトタケルノミコト)』や崇神天皇の『四道将軍』の遠征物語には、『 2+ 3= 5』の回答を見つけることが出来ません。捜索範囲を広げ漸く発見した『まつろわぬ民』が、その名も『土蜘蛛(ツチグモ)』。ネット上の画像を見ると、蜘蛛の姿で描かれることが多いですが、『酒呑童子』が退治した妖怪として与えられた、後付けのイメージです。胴が短く手足が長かったのだとか?九州北部の『土蜘蛛』は、『日本武尊』の父『景行天皇』が派遣した討伐軍に徹底抗戦、最後は女王『田油津媛(タブラツヒメ)』が、神功皇后に討ち取られました。続きは次回。

 

 

社長はこう読む、古事記・日本書紀⑯

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。古代日本には西方キリスト教とは異なる、様々な教えが持ち込まれました。『グノーシス主義』も その一つ。災いばかりの世界をつくった創造神は欠陥だらけ、なんなら、狡猾に『イヴ』を唆した『蛇=サタン』の方が賢いと『蛇』を崇拝したかと思えば、反対に『蛇』から手足を奪ったヤハウェに『蛇』の脚を与え、悪魔の姿に描いて祀るなど奇想天外・支離滅裂な多神教で、新・旧聖書の教えを悉く否定するアンチ・キリスト教の宗派です。この『蛇神』を祀る『グノーシス主義』が、後の日本社会に大きな禍根を残すとは、一体 誰が想像していたことでしょう?

一般的に神道に於いては、神の霊魂は『和魂(ニギタマ)』・『荒魂(アラタマ)』の、2つの側面を持つと考えます。神武天皇の前に現れた熊野の荒ぶる神や、崇神朝に疫病をもたらした『大物主命』は、旧約聖書のエピソードと照らし合わせヤハウェの『荒魂』、密教の世界なら『不動明王』、当説で言うところの “ダークサイド” で間違い有りません。ここまでなら良かったのですが、その『大物主命』が三輪山に住む『蛇神(=縄文の土俗神・アラハバキ?)』として信仰されていることを知ってか知らずか、国津神の女王 卑弥呼を辱める為、『箸墓』伝説の中に『蛇=サタン』のスキームを安易に借用したから、さあ大変!!『ヤハウェ=大物主命=蛇=サタン』と解釈する余地を与えてしまいました。これでは『グノーシス主義』そのものです。

『丹塗矢(ニヌリヤ)』伝説によれば、神武天皇の后『比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)』の父親は『大物主命』。つまり、日向で寄り添った『阿比良比売(アヒラヒメ)』でなく、大和の地の “神の娘” を正妻として選んだ結果、『綏靖天皇』以降の皇統に『サタン』の血が混ざってしまった訳です。”神の子” を宿した神功皇后も『開化天皇』の来孫( 5世代後の子孫)ですから、『応神天皇=イエス・キリスト』にも『サタン』の血が流れています。『王朝交代説』の騒がれる『継体天皇』も応神天皇の来孫。”悪魔の血脈” から逃れることは出来ません。

一部の保守層の皆さんは、記紀編集部が犯したこの致命的なチェックミスに気付き、『グノーシス主義』のジレンマに苦しんでいらっしゃると思います。これを『サタンを中心とする四位基台』と呼び、そこからの救済の道を指し示しているのが、実は例の “半島生まれ” のカルト集団なんです。凶弾に倒れた安倍晋三氏が彼らに近付いた動機は、政治的支持を得る為の邪なものではなく、もしかしたら、宗教的信条の親和性による純粋なものだったのかも知れません。

 

社長はこう読む、古事記・日本書紀⑮

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。中央アジアのキルギス共和国には、「日本人とキルギス人は元々は兄弟で、西に残った肉好きがキルギス人に、東に向かった魚好きが日本人になった」との言い伝えが有り、『海幸山幸』の物語に似ていると、日ユ同祖論の文脈で しばしば話題になります。神武天皇に繋がるのは『山幸彦』なので、記紀の内容とは関係性が “あべこべ” ですが 、仮に『海幸彦』は大海原に漕ぎ出して『東の島々』を目指したグループ、『山幸彦』は陸路 東に向かった後発グループ、つまり『ディアスポラ』を経験したユダヤの足跡を説明しているならば、興味深い伝説です。

ユダヤ文化が『海のシルクロード』を通って、日本にもたらされた可能性を示す痕跡が残されているのは、琉球諸島だけではありません。ちょっと胡散臭い物も含まれますが(苦笑)、『アーク伝説』の剣山やイスラエルの神殿を思わせる『磐境神明神社』の在る徳島県、ユダヤ人埴輪で有名な『芝山古墳』の在る千葉県など、太平洋沿岸には、海洋民族が黒潮に乗ってもたらしたと思わせる、”ユダヤ的なモノ” が散在します。祭祀一族として名高い『阿波忌部氏』も、海洋民族としての側面を持つようです。

一方、数世紀に渡るローマ帝国滞在中に、キリスト教に改宗したグループ(伏見アリウス派の秦氏、宇佐ネストリウス派の秦氏など)も、異端の烙印を押されると陸路を伝って東を目指したことでしょう。『海幸山幸』に似た物語や『弓月の国』など、シルクロードの北方ルートに、彼らに関する逸話を見つけることが出来るのは、それが理由に違いありません。

海路と陸路、日本で合流するまでの長い月日の間に、両者は『黄泉がえり』を信じ『犠牲』を求めるグループと、『生まれ変わり』を信じ『犠牲』を求めないグループ、死生観に於いて相容れない 2つに分化し、それぞれ国津神と天津神の中に融合・同化して行きました。倭国統一を国津神に先を越された、嫉妬も含まれていたことでしょう、女王 卑弥呼は『サタン』に肉体を委ねて 呪力を手に入れた『ユタ』として忌み嫌われ、『箸墓』伝説に『百襲姫(100人の奴婢を殺めた女王)』の名を刻むこととなったのです。結論、邪馬台国とヤマト王権は対立関係にあり、連続性はなかったものと思われます。

 

社長はこう読む、古事記・日本書紀⑭

こんにちは。㈱昭和技研工業の岩井です。沖縄の人々が縄文系のDNAを多く残すのは、皆さんご存知の通り。その沖縄に見られる『看過(カンカ)』という風習は、子羊の血を門柱に塗って災禍を避ける、ユダヤの『過越の祭』と非常によく似ています。沖縄に残るユダヤの痕跡は他にも多々有って、その一つが民間霊媒師の存在です。自らを神に選ばれた存在と考え戒律を重んじる彼らは、琉球王国時代から公権力により弾圧を受けた歴史を持ち、洪水を止める為に “犠牲を求める” 神のお告げ、『真玉橋の人柱』という都市伝説も残されています。

その霊媒師の現地での呼び名を聞いて、私はゾッとしましたね。その名も『ユタ』。音の響きが余りにも似ていて、本来は “ユダヤ” を指す言葉だったとしても、何の不思議もありません。つまり私が言いたいのは、「ユダヤ的文化は朝鮮半島からではなく、黒潮に乗り南西諸島を経由して日本列島に流入した。そして その担い手は、海洋民族である縄文の民 自身だったのではないか?」ということです。『ユタ』の多くは女性で、そこは旧約聖書に描かれる『預言者』像と異なりますが、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」卑弥呼との関連性が窺われて、逆に興味深いです。

余り知られていませんが沖縄にも、縄文晩期に水稲耕作が行われていた可能性を示す、『天水田(雨水や湧き水を使い、大規模な灌漑施設を必要としない棚田のこと)』の遺構が発見されています(何故か学術的には無視されたようです)。日本の在来種のイネの起源が、中国の長江より更に南の南シナ海沿岸部、『珠江』中流域に在ることや、タイに住む少数民族『マニ族』のDNAが縄文人に近いことが、最近になって分かってきています。稲作文化を含め多くのモノが、縄文時代に『海のシルクロード』を通って、日本にもたらされたのかも知れません。